【18日】安本さん: Kよもやま話

12月18日の記事はJDA秋季日本語大会に選手としてさんかしていらした安本志帆さんから頂戴しました!!話題のKの原稿を公開してくださっています!!

 

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Kよもやま話

 

2021秋JDAは私にとって3度目の「特に印象に残るシーズン」になりそうです。

 

まず1度目は、JDAに出場しはじめてまだまもない頃(2015年くらい)その緊張感からちょっとした試合直前の立論の変更に不安がMAXになりまさかの過呼吸。第一立論なのに読めないという前代未聞な展開となったシーズン、2度目は、そんな私が第一回JDAジュニア大会(ヘイトスピーチ論題)でパートナーとお互い出勤前ギリギリまで夜通しケンカをしながら準優勝を成し遂げたシーズン、そして3度目はKritikに挑戦した今シーズン。そしてその議論が少なからず「話題」となったこと。実は今季もパートナーとは毎日ケンカをしていました笑

 

今シーズンのふりかえりと共に、あまり語る機会もなかった私という人間がなぜディベートをやっているのか、それが今回のKとどのような関係があるのか、そのあたりのよもやま話から始めようと思います。

 

その前に。

このようなステキな企画をして下さり、そして「あなたの話も聞いてみたいよ」とお声がけくださった運営の方々に感謝しております。

自分にとってもこの立論が自分のどのような背景から生まれたのかを知るよい機会となりました。ありがとうございます。

 

稚拙な文章であることはお断りをしつつ、以下の順番で思いの丈を書き殴っていきたいと思います。

 

  1. 私〈安本志帆〉という人について
  2. なぜKritikをやりたかったか
  3. この論題でKritikを出したことの背景
  4. 私の一番言いたかったこと
  5. 私がそこに拘る理由
  6. 多様であることは良いことなんじゃないかってこと
  7. このコミュニティに対して思っていること
  8. このKritikについて

 



  1. 私〈安本志帆〉という人について

 

ご存知の方も多いですが、私は社会人になってから、それも子どもを2人出産してからディベートを学び始めたという、このコミュニティにおいてはかなりの少数派です。もしかすると私一人かもしれません。乳飲み子を抱えながらディベートを学んでみようと思うに至った理由は2つあります。

 

 1つめは、私は幼稚園教諭であり(現役です)、教育オタクでもあること。「受験のための教育」や「〇〇ができるようになるための教育」というよりは、人間そのものに対する教育のオタクです。

 

幼稚園に在籍するような小さな人間は、一人一人の「違い」が明らかで、人間はみな全然違っているということが当たり前の世界です。どの人も本当に大切な存在で大事に大事に育てられるべき人間です。必要のない人間なんて一人もいないと日々感じています。これは大きさに関係なく、大きな人間(大人)にも同じことが言えると考えています。

 

 2つめは、我が子の話。長男は「発達障害」の診断を受けるような子、つまり、社会の枠におさまりきらない、子育て難易度ランクがあるとすれば確実に「星5つ」、流行りの言葉で表現するなら「生きづらさを抱えた人」であったということが大きく起因しています。

 

 この2つがどのように起因しているかというと、私は保護者としても、教育者としても、この社会の中で生きづらさを抱えた子どもとその親のQOLをどのように上げていくかに切実に興味を持ったということころです。紆余曲折の末、私は「常識という枠に囚われずに自由に生きようとできる(※するではなくできる)状態にあること」と、その際には「合理的な意思決定」が必要だということ、という結論に至ったのです。そして、その実現には、(教育的な視点で)前者には哲学プラクティス、後者にはディベートが良いのではないかという仮説の元、私のこの営為は始まったのです。

 

2、なぜKritikをやりたかったか

 

私は「そもそも」を考えるのが好きです。だから哲学をやっています。私にはそのような前提があることを表明した上で、JDA論題には「そもそも」を問える論題が多く、私は毎シーズン、論題発表の度にワクワクし、コミットしてきたということを共有しておきたいと思います。その一方で、「そもそも」議論は、試合に勝つ為には、特にインパクトの中ではあまり効果的ではなく、ジャッジにもとってもらえないという苦悩を抱えておりました。私がそんな壁にぶちあたっていた2018年頃、久島さんに「志帆さんと坂上さん(今シーズンと同じくそのシーズンでもパートナーを組んでもらっていました)にしかできない哲学的なディベートはあるはずだし、だからこそ諦めないで続けてほしい」という言葉をかけてもらいました。その言葉や態度が私を今日まで支えてくれたことは間違いのない事実です。その後、そんな私の強みでもある「そもそも」を使っておおっぴらに議論できる「Kritik」なるものがあるのだと、佐藤可奈留さんの「華麗なるK」を見て知ったのです。そこからの私はいつしかKritikをやりたいという目標を抱くことになったのでした。それは久島さんにかけてもらった言葉に応えたいという気持ちの現れでもあったように思います。

 

3、この論題でKritikを出したことの背景

 

 1、でお話した私という人間が、「自由に生きる為の「自由」とは何かを考える時、「インクルージョンは可能か、或いは、そもそもインクルージョンは必要なのか」という問いに行き当たります。その問いと向き合うために私は、年齢、国籍、ジェンダー性的志向、宗教、病気、障害など、社会的に「少数派」と言われる人との対話の場を哲学プラクティスで作ってきました。その中で、最近ようやく私が気づいたこと、それは、「少数派」の人は「共感」されることを必ずしも求めてはいないということ、そして、彼らの前に立ちはだかる高い壁をつくっている社会や文化を生み出す側にも私はいるのだということ、いるだけではなく「関与」してしまっているのだということなのです。

 

そしてそのことを認めるのはそんなには容易ではなく、なぜなら、自分が優位なアイデンティティを持っていることで、劣位集団にいる人達が抑圧を受けていること、そしてさらに優位アイデンティティが強化維持され続けることに私自身が全く無自覚だったからです。そのような背景から、「マイノリティ保護」のような議論が出されうる論題において、誰目線でそれを論じるのかという難しさと対峙しなければ厳しいと直感的に私は感じたのです。政策論題だからこそ、当事者を生かすことも殺すこともゲームとしてできてしまう怖さを想像した時、Kritikという表現方法でしかこの論題において私の言いたいことは言えない。そして今言いたい。という気持ちになり、その欲望のままに突き進んだ結果、生み出されたのが今回の立論だったように思います。

 

4、私の一番言いたかったこと

今回の論題では、パートナーと私の言いたいことは若干違っていて、そこの折り合いをどうつけるのか、2人でたくさん考えました。なぜなら2人の言いたいことの違いは無関係ではなく地続きだからで、最終的には私の立論にパートナーの大切にしているエビデンスを入れ込むという形で本番を迎えました。

 

ここからは、私が言いたかったことです。

今回の論題だけではなく、クォータにも、ヘイトスピーチにも移民難民にも、安楽死にも代理出産にもすべて「当事者」がいます。

我々はそういう極めてセンシティブなテーマを競技(ゲーム)の材料にして知的に楽しんでいるということは忘れてはいけないと思うのです。

 

例えば私がもしその当事者だったら、自分のアイデンティティについて他者によって勝ち負けつけられたいかな・・・と想像をしてみました。

 

仮に私がその論題の当事者なら、様々な抑圧によってあげたくともあげられない声を、ディベートという競技上で、ディベーター達が切磋琢磨した立論を、議論として吟味され、その結果、自分の声なき声が市民権を得ていくような、そのような場になるのだとしたら歓迎すると思いますし、当事者としても参加したいと思うんじゃないかなと考えました。逆に、統治的な立ち位置から、統治的目線で、リアリティのない議論がなされたとしたらとても傷つき、益々社会との分断を感じ取ると思うのです。

 

私が言いたかったことというのは、(うまく言えてなかったですけど)政策決定パラダイムかKritikかの二元論でなく、ディベートという営為において、選ぶ言葉やエビデンスの切り取り方、自分の議論が誰かを周緑化させていないかどうかを吟味しあうことで、社会をよりよく変革させていくような議論がこのコミュニティならできるのではないかという希望のある話でした。もともとその為にKritikってあるのじゃないのかなと私は理解をしていたのです。

 

5、私がそこに拘る理由

 

 誰目線からの物言いなのか、に私が拘る理由は、私の痛い経験があるからです。

私は若い頃から発達障害の特性をもつ子、疑わしい子を担任していました。今ほど情報はなかったですが、研修にも行きとても熱心に勉強をしていました。知識をつけ間違った情報や無責任なことを保護者に向けて言うようなことはしていなかったと思います。実際にクレームもなかったのです。ところが、私が当事者(発達障害のこどもの親)になった時、我が子の担任から発せられる言葉、その言葉のチョイス、矛盾する態度、など様々なことにとても傷ついたのです。その全ては、私も教師として保護者に向けてかけていた言葉でもあり、考えでもあり、態度でもあり、正しいとされているふるまいだったのです。その時初めて私は、正しさの暴力性や不条理を身をもって体験したのです。そして、正しさを補強するエビデンスはいくらでも出てくるのに、その暴力性や不条理を補強するものはとても少ないという現実にも出くわしたのです。

 

当時は自分がその立場にならないと気づけなかったという自らの愚かさに随分と絶望したものです。その痛みから「少数派の人」との対話の場を作ってきました。私達は心にバリアを持っています。バリアのない人なんていません。だから、そのことに常に自覚的でありながら、心理的にもクリティカルな態度で謙虚に「当事者」を知ろうとするコミュニティでありたいと思う気持ちが私の拘りなのです。

ただ、そこに「勝ちたい」気持ちが入ってくると、そもそものこの大事なことを今回も見失いました。質疑でも失敗しましたし、立論段階で矛盾した暴力的なことを無自覚に入れていることがありました。自分の傲慢さを今回も思い知りました。

 

6、多様であることは良いことなんじゃないかってこと

 

とはいえ、これは私の思想でしかありません。もちろん同じ考えの人がたくさんいると私は安心するでしょうし自分の正しさが認められたような気もちにもなるでしょう。ですが、私の意見と相容れない人がいるからこそ面白いのであって、リアリティがあるのだと思います。だからこそ政策ディベートを我々は行うのだとも思います。

だから、結局、様々な意見があっていいと思っています。ただ、いくら個人的な意見だと前置きしたにせよ、年齢、ジェンダー、経験、職業、立場によって、その言葉は個人だけのものにとどまらず、コミュニティ形成に少なからず影響してしまうという難しさはあるのかなと思いますし、私は今あげた年齢、ジェンダー、経験、職業、立場すべてにおいてこのコミュニティでは劣位にあると思うのであえて声をあげておきたいと思います。

 

7、このコミュニティに対して思っていること

 

私は、ここのコミュニティの中にいらっしゃるたくさんの方々にここまで育てていただいています。ここ数年は特に、今季のパートナーであった坂上さんをはじめたくさんの方に、1日10時間×3日とかいう、知的タフさに挑むトレーニングに何度もお付き合いいただいたり、読書会をしたり、学会に一緒にエントリーしてもらったり、今シーズンにおいては、私たちの議論に興味を持たれた若い人とお友達になれたり、いろんな人とお話させていただけて良いことづくしです。私にとっては言うまでもなくとても大切なコミュニティですし、自分の考えたストーリーがたとえどのような意見だったにせよ、SNSなど皆さんのプライベートな場でも話題になるなんて、間違いなく今まで絶対になかった!もちろん意見によって感情は動きますが、しかしながらそれだけでも私にとってはとても喜ばしくもあり、Kritikの奥深さに興味が沸き続けているのです。

 

8、このKritikについて

 

今思うと、一院制でやる固有性もいまいちだし、自分の言いたかったことさえ言えていないのが現状で、にもかかわらず言いたいことがたくさんあって立論の構成自体も悪いと思います。そしてこの議論をよりよくする方法については、私達の議論への考察を書いてくださったカレンダーの先の記事で逆に勉強させていただいています。と同時に、私達の議論に真摯に向き合って下さったことにとても感謝しております。これだけの皆さんが試合のあとでもこの議論について考え続けてくださったり、この問題を大事に扱ってくださったことについては、Kritikとしてある部分については成功したと言えるのではないかと私は思っています。でも真正面からKritikで試合に勝つまでにはまだまだ私のトレーニングは必要です。皆さん、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

【クリティーク】

【1AC】

【論点1】ゲーム性

競技ディベートのゲーム性には慎重であるべきです。なぜなら勝つためのテクニックが、あるべき態度よりも優先されてしまいかねないからです。

日赤広島看護大学 是澤 2012

「青沼(2006)は、こうしたディベート教育の現状を個人の能力をあげる「特技」として成り下がっていると批判した。そして、いわゆる「勝ち組」になるためにディベートで培った能力(理性)を私的に使用する問題を厳しく批判した。さらには日本の公共を例に、ディベートは「『競争』社会において『勝ち組になりたい多くの人たちが身につけたいと考える『スキル』(p2)であり、われわれディベート教育者がこのような「『私利私欲」の達成を目的になされる『一部の人のための』コミュニケーション術」(p.13)を助長してきたのではないかと自省を促した。」終わり。

したがって、より多様な人に議論を聴いてもらうためには、テクニックよりも態度の振り返りが必要です。

【論点2】ジャッジング

ジャッジは、この試合においては「日本国」の立場でみなし規定し判定しないでください。理由は、今回の論題においては、技術を偏重することに弊害があるからです。ジャッジは、現実の主体的な個人として、問題提起に共に取り組む姿勢を投票というアクションによって示すべきです。

 ビンガムトン大学 シュッツ 2013 和訳

「実在するジャッジの主義主張をラウンドに持ち込むことは、投票用紙を意味のない紙きれ以上のものにし、ジャッジを期待される教育者にすることができる。アイデンティティに基づく反省的な立場からディベートラウンドを判定することが最もこの目的に寄与する。既存の動向を隠れ蓑にすることを許さないのみならず、ラウンドの終わりにジャッジ個人を明るみにして、学生をただの優れたディベーターではなく優れた市民にすることに加速する教育の一形態の促進を引き起こす。」終わり。

【論点3】論題の肯定

■1点目。肯定側は、論題が要求する多様性という課題に取り組むことが論題を肯定していると主張します。なぜなら、それが論題の本質だからです。abcdeのeだけ取ってください。

国会国立図書館 2003

一院制にしろ二院制にしろ、それぞれ長所(メリット)と短所(デメリット)がある。まず、二院制について着目すると、その長所(メリット)としては、次のことが挙げられる。(a)立法機能という非常に強い権限を分割することにより、抑制が働き、立法府が全能となることを抑止し得ること、(b)最終決定までに一定の期間を置くことにより、拙速を避け、慎重に審議し得ること、(c)第一院の衝動的な行動をチェックし得ること、(d)国民の数を代表する第一院に対して、第二院の構成に工夫を加えることにより、国民の「理」ないし「良識」を代表させ得ること、(e)国民の多様な意見や利益をきめ細かに代表させ得ることである。なお、(a)から(d)までの点は、貴族院型、連邦制型の二院制についても多かれ少なかれ妥当することであり、民主的第二次院型の二院制の存在理由としては、(e)の理由が最も本質的なものとなる。」終わり。

 

■2点目。つまりこの論題の本質は「多様な民意の反映」です。社会の向き合い方が変化し続けている現代において、多様な民意に目が向けられるようになりました。しかし、多様な民意の合意形成には利害が相反します。だからこそ、論題において「そもそも」の部分から論じる必要があるという我々の主張は論題を肯定しています。

法政大学石坂2013

「「仮想現実」から「拡張現実」へという、社会との向き合い方である。こうした社会との新しい向き合い方に関わり、「合意形成学」から多くの発言がなされている。合意形成学において、現代の人間は意味充足を生活様式とし、個性的な<差異>や自律性が重要視されるから、全会一致や多数決を合意の条件にすることは許されないとの時代認識に立つ。」終わり。

 

【論点4】当事者性

■1点目。ここでは、【論点2】ジャッジングで述べた、この試合において、なぜ技術を偏重することに弊害があるのかを論じます。多様性を論じる時に社会的弱者の存在が議論になりますが、我々の議論そのものが、社会的弱者の存在をないものにしてしまったり、社会内の「多様性」をより欠くことになってしまうからです。

国会国立図書館副主査 平岡 2013

「「自己決定権」概念を批判する筆者の基本的な問題意識は、たとえば女性・子ども・重病患者などの表面的な選好・意思表示を「自己決定権」の行使として形式的に「尊重」することが、むしろこれらの社会的弱者に対して抑圧的に機能してしまう可能性を懸念したものであった。たとえば、「死ぬ権利」や「安楽死」について個人の「自己決定権」行使として肯定的に評価することは、結果として社会的弱者が社会内における自らの存在を「消去」することを後押しすることになり、社会内の「多様性」「多極性」を減少させることにつながってしまう。」終わり。

この試合において、例えば、「試合の外でもこの議論はできる」といった反論があるかもしれませんが、一見試合相手を尊重していると見える言説にこそ、無自覚な排除や無関心が潜んでいることを我々はこの試合において「立ち止まる」ことで言語化し、そこから議論しようと提案しています。

 

ここで言っている「無関心」とはこのような温度差のことです。

愛知淑徳大学 加島 2017

津波被害を受けた地域に住み続ける家族が「生きているのか、それとも死んでしまったのか」「仮に生きていたとしても(中略)【ママ】今この瞬間にも息絶えようとしているのではないだろうか」と苦しむ「私」は「最悪の事態も覚悟しなければらない」 状況にあるが、三鷹市役所の職員は映画を楽しむように津波を眺め「非常時って感じですよねー」と笑う。「私」はそれを見て「この人達がいなが軽く言う『非常時』は、私の『非常時』とは違う」と感じる。そこでは東京も確かに「非常時」ではあるが、地震津波の被害を大きく受けた地域が直面する深刻な現実とはかけ離れた現実を生きていることが示されている。」終わり。

これが無自覚な無関心の実態であり、この差が、無自覚な排除をひきおこすのです。多様性を論じようとするとき、この差に無自覚ではいけないのです。

■2点目。ジレンマ。はじっこに追いやられた社会的弱者が主体となり、その現状と、それを生み出す構造を変えるために参加行動をしようとする時、すでにはじっこに追いやられた存在の社会的弱者の声はなかなか俎上に乗りにくく、さらには、その当事者が抱える問題そのものが、非当事者にとってはとりとめのないことでわざわざ俎上にのっていくのが困難になるというジレンマがあります。

神戸大学 青山 2020

「それは,社会における不正義と不平等をなくしていくためには,これらの存在を認知する仕方にある偏りからまず問うこと,規範や習慣を批判的に検証すること,そしてこれらを現行の権力関係のなかで差別・搾取・抑圧されている者の側から行うことが重要だという認識論である. 「フェミニズム」はこの認識論にもとづいて運動の世界でも研究の世界でも客観的と思われていた「事実」や「科学」の男性バイアスを摘発し,個人的なこととして隠されてきた性が,公的な世界での女性差別の根源であることについて追究してきた.「主観的」で「非科学的」で「取るに足らない」といわれてきた個人の経験、性についての経験,女性として差別・搾取・抑圧を受ける当事者の経験を,運動だけでなく研究の中心にもしてきた(hooks 1984; 江原 1985; Olsen 2003).フェミニスト当事者研究がここに確立することになった。」終わり。

最終的には,社会的弱者とそうでない者との避けがたく不平等な関係をまずは私達が議論の中で見えるようにすること、そして、立場が不均衡なまま進められる議論を聞いた当事者の傷つきを想像できるかどうか、という困難を対象化し克服しようとすること自体が我々の今シーズンの可能性であることをこのクリティークで指摘します。

 

■3点目。社会的弱者とそうでない者との避けがたく不平等な関係を見えやすくすることはそんなに簡単ではありません。なぜなら、既得権益者の抵抗を伴うからです。

一橋大学 後藤 2013

「もちろん、実際には、社会制度の変更は、各制度における既得権益者の抵抗を伴うために、 容易ではない。この問題に対処するためにロールズが持ち出してきた装置が、「無知のヴェール」と呼ばれるものである。それは、社会制度を評価する際には、自己の社会的地位や財産、技能や性質、嗜好など、私的利益に関連する情報は一切顧みてはならない、とする一種の中立性の要請を象徴する。【中略】後者は、例えば、女性であること、障害をもつこと、歴史的不正義や犯罪の被害者であることなどは、まさに社会制度を評価する観点となるべきものだから、覆い隠してはならないという批判である。」終わり。

 

この論題を議論する上で我々に無自覚な部分について、一点目として社会的弱者とそうでない者との避けがたく不平等な関係をまずは私達が議論の中で見やすくできたか、そして、二点目として立場が不均衡なまま進められる議論を聞いた当事者の傷つきをこの試合において想像できたかどうか、という具体的なこの2点において、この困難を対象化し克服しようとすること自体に我々が成功していたら我々にボートしてください。

 

【2AC】

【論点5】特権

■1点目。覆い隠す側には覆い隠している自覚がもてないことを「特権」という言葉を使って説明します。

上智大学 出口 2020

「「特権」(Privilege)は、ある社会集団に属していることで労なくして得る優位性、と定義される。ポイントは「労なくして得る」で、努力の成果ではなく、たまたま生まれた社会集団に属することで、自動的に受けられる恩恵のことである。【中略】特権とは、ゴールに向かって歩き進むと次々と自動ドアがスーッと開いてくれるもの、と考えればわかりやすい。自動ドアは、人がその前に立つとセンサーが検知して開くが、社会ではマジョリティに対してドアが開きやすいしくみになっており、マイノリティに対しては自動ドアが開かないことも多い。マイノリティはドアが開かずに立ちはだかるため、ドアの存在を認識できるし、実際認識している。しかし、マジョリティ側はあまりにも自然に常に自動ドアが開いてくれるので、自動ドアの存在すら見えなくなってしまう。特権をたくさんもっていても、その存在に気づきにくいため、マジョリティ側は自分に特権があるとは思っておらず、こうした状況が「当たり前」「ふつう」だと思って生きているのである。」終わり。

 

■2点目。例を出します。特権を持つ人の多く集まる行政側が障害者差別を自他共に認識できないことに問題の本質が隠されています。我々も同じようにそこにある本質を捉えることができないままに行政の「善」を例えばメリットのように提出したり、「善」という前提でジャッジをしたり、肯定否定にわかれて「議論」をしたことだけで多角的に議論できたつもりになることは往々にしておこります。

先の是澤

 「リハビリテーション (社会復帰)」 この言葉ほど障害者にとって屈辱的な言葉はない。他にそういう障害者をさげすむ言葉はあるにしても、それは障害者を罵倒し、はずかしめるものであることを障害者側もそれを言う側もよく承知しているのに比べて、リハビリテーション (社会復帰)は行政の行う福祉という観点からそれは「善」であり、むしろ正義として位置づけられているところに問題があり、言い知れぬ恐ろしさを感じるのである。(横塚 、1975、2007、p146)【中略】そして、この「治る」ということは「健全者になる」ことであり、健全者を至上(正義)とし、障害者を否なるものと位置づける思想を糾弾した。さらに問題は行政が「リハビリテーション」を「善」として障害者に強要することだけにとどまらず、「リハビリテーション」ということばそのものを無批判に善として決めつけ、社会に定着させたことである.このことが言説の資源を十分にもたない障害者問題をより一層難解にさせている。つまり、行政側が障害者差別を自他共に認識しない(できない)ことに問題の本質がある。」終わり。

 

【論点6】インパク

■1点目。全ての試合において、ジャッジの投票はディベートとは何かを決めていく影響力があります。

 先の是澤 2002

「矢野よしろう現JDA副会長は、ディベートにおけるジャッジの存在を以下のように記している。ジャッジは言うまでもなくディベートの勝者を決める。しかしジャッジの影響は、特定の試合にだけ及ぶだけで、おしまいになる訳ではない。ディベーターは、勝ちやすいディベートのスタイルを選択していく。そうなるとジャッジは、試合で勝者の選択していくことにより、結果としてディベートのスタイルも選択していくのだ。つまりジャッジは、 多かれ少なかれディベートとは何かを決めていく存在でもあるのだ。ディベートにおけるジャッの存在は大きい。(189)つまりディベーターはジャッジに適応することにより、勝ちやすいディベートスタイルを確立しているのだ。」終わり。

 

■2点目。我々は特権があることに無自覚であるが故に、立場が不均衡なまま議論をしたつもりになっていてもそれを見過ごしてしまうだけでなく認めたくないという心理的状況に陥ります。

ダイアンJグッドマン 2017

自分自身を特権的あるいは優位と認めることに反発する人は多い。自分に特権があるという考え方を受け入れられない人もいれば、特権があることは認めても、そのことに不快感を覚える人もいる。こうした反応にはいくつかの理由がある。

第一に「特権的」「優位」あるいは「抑圧者」といった言葉には否定的なニュアンスがある。故意に他者を差別したり虐待したりする人間のことだと多くの人が考え「悪いやつ」のことだと思う。大半の人は自分自身が悪いとは考えておらずそのように考えようとも思わない。自分たちは他者を公平に扱う思いやりのある人間だと考えている。

第二に、たいていの人は自分が特権集団に属していることや、社会的権力を持つ集団の一員であることに気づいてすらいない。これまで述べてきたように特権集団に属する人々の大半はそうしたアイデンティティについて考えることがない。自分たちはあくまで「普通」と認識しており制度的な不平等がどれほどおおきなものか、自分たちがどのような形で恩恵を得ているのかを理解していない。自分の持つ特権に気づいていなかったり、自分の努力で特権を手に入れたと感じたりしている人にとって特権集団の一員であることを受け入れるのは難しい。たとえ特権集団の人々が自らの社会的地位を自覚していたとしても、特権や権力を持っていると「感じて」はいない。おわり

 

総じて、多様性を議論する際に抱えるこの「困難」をまずは見える化し、克服しようとすることに、論題肯定の範囲内でチャレンジしている我々に優位性があります。

 

 

本企画では建設的なコメント、応援コメントのみ掲載させて頂きます。執筆してくださっている方へ温かいコメントを是非お願い致します!