【18日】安本さん: Kよもやま話

12月18日の記事はJDA秋季日本語大会に選手としてさんかしていらした安本志帆さんから頂戴しました!!話題のKの原稿を公開してくださっています!!

 

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Kよもやま話

 

2021秋JDAは私にとって3度目の「特に印象に残るシーズン」になりそうです。

 

まず1度目は、JDAに出場しはじめてまだまもない頃(2015年くらい)その緊張感からちょっとした試合直前の立論の変更に不安がMAXになりまさかの過呼吸。第一立論なのに読めないという前代未聞な展開となったシーズン、2度目は、そんな私が第一回JDAジュニア大会(ヘイトスピーチ論題)でパートナーとお互い出勤前ギリギリまで夜通しケンカをしながら準優勝を成し遂げたシーズン、そして3度目はKritikに挑戦した今シーズン。そしてその議論が少なからず「話題」となったこと。実は今季もパートナーとは毎日ケンカをしていました笑

 

今シーズンのふりかえりと共に、あまり語る機会もなかった私という人間がなぜディベートをやっているのか、それが今回のKとどのような関係があるのか、そのあたりのよもやま話から始めようと思います。

 

その前に。

このようなステキな企画をして下さり、そして「あなたの話も聞いてみたいよ」とお声がけくださった運営の方々に感謝しております。

自分にとってもこの立論が自分のどのような背景から生まれたのかを知るよい機会となりました。ありがとうございます。

 

稚拙な文章であることはお断りをしつつ、以下の順番で思いの丈を書き殴っていきたいと思います。

 

  1. 私〈安本志帆〉という人について
  2. なぜKritikをやりたかったか
  3. この論題でKritikを出したことの背景
  4. 私の一番言いたかったこと
  5. 私がそこに拘る理由
  6. 多様であることは良いことなんじゃないかってこと
  7. このコミュニティに対して思っていること
  8. このKritikについて

 



  1. 私〈安本志帆〉という人について

 

ご存知の方も多いですが、私は社会人になってから、それも子どもを2人出産してからディベートを学び始めたという、このコミュニティにおいてはかなりの少数派です。もしかすると私一人かもしれません。乳飲み子を抱えながらディベートを学んでみようと思うに至った理由は2つあります。

 

 1つめは、私は幼稚園教諭であり(現役です)、教育オタクでもあること。「受験のための教育」や「〇〇ができるようになるための教育」というよりは、人間そのものに対する教育のオタクです。

 

幼稚園に在籍するような小さな人間は、一人一人の「違い」が明らかで、人間はみな全然違っているということが当たり前の世界です。どの人も本当に大切な存在で大事に大事に育てられるべき人間です。必要のない人間なんて一人もいないと日々感じています。これは大きさに関係なく、大きな人間(大人)にも同じことが言えると考えています。

 

 2つめは、我が子の話。長男は「発達障害」の診断を受けるような子、つまり、社会の枠におさまりきらない、子育て難易度ランクがあるとすれば確実に「星5つ」、流行りの言葉で表現するなら「生きづらさを抱えた人」であったということが大きく起因しています。

 

 この2つがどのように起因しているかというと、私は保護者としても、教育者としても、この社会の中で生きづらさを抱えた子どもとその親のQOLをどのように上げていくかに切実に興味を持ったということころです。紆余曲折の末、私は「常識という枠に囚われずに自由に生きようとできる(※するではなくできる)状態にあること」と、その際には「合理的な意思決定」が必要だということ、という結論に至ったのです。そして、その実現には、(教育的な視点で)前者には哲学プラクティス、後者にはディベートが良いのではないかという仮説の元、私のこの営為は始まったのです。

 

2、なぜKritikをやりたかったか

 

私は「そもそも」を考えるのが好きです。だから哲学をやっています。私にはそのような前提があることを表明した上で、JDA論題には「そもそも」を問える論題が多く、私は毎シーズン、論題発表の度にワクワクし、コミットしてきたということを共有しておきたいと思います。その一方で、「そもそも」議論は、試合に勝つ為には、特にインパクトの中ではあまり効果的ではなく、ジャッジにもとってもらえないという苦悩を抱えておりました。私がそんな壁にぶちあたっていた2018年頃、久島さんに「志帆さんと坂上さん(今シーズンと同じくそのシーズンでもパートナーを組んでもらっていました)にしかできない哲学的なディベートはあるはずだし、だからこそ諦めないで続けてほしい」という言葉をかけてもらいました。その言葉や態度が私を今日まで支えてくれたことは間違いのない事実です。その後、そんな私の強みでもある「そもそも」を使っておおっぴらに議論できる「Kritik」なるものがあるのだと、佐藤可奈留さんの「華麗なるK」を見て知ったのです。そこからの私はいつしかKritikをやりたいという目標を抱くことになったのでした。それは久島さんにかけてもらった言葉に応えたいという気持ちの現れでもあったように思います。

 

3、この論題でKritikを出したことの背景

 

 1、でお話した私という人間が、「自由に生きる為の「自由」とは何かを考える時、「インクルージョンは可能か、或いは、そもそもインクルージョンは必要なのか」という問いに行き当たります。その問いと向き合うために私は、年齢、国籍、ジェンダー性的志向、宗教、病気、障害など、社会的に「少数派」と言われる人との対話の場を哲学プラクティスで作ってきました。その中で、最近ようやく私が気づいたこと、それは、「少数派」の人は「共感」されることを必ずしも求めてはいないということ、そして、彼らの前に立ちはだかる高い壁をつくっている社会や文化を生み出す側にも私はいるのだということ、いるだけではなく「関与」してしまっているのだということなのです。

 

そしてそのことを認めるのはそんなには容易ではなく、なぜなら、自分が優位なアイデンティティを持っていることで、劣位集団にいる人達が抑圧を受けていること、そしてさらに優位アイデンティティが強化維持され続けることに私自身が全く無自覚だったからです。そのような背景から、「マイノリティ保護」のような議論が出されうる論題において、誰目線でそれを論じるのかという難しさと対峙しなければ厳しいと直感的に私は感じたのです。政策論題だからこそ、当事者を生かすことも殺すこともゲームとしてできてしまう怖さを想像した時、Kritikという表現方法でしかこの論題において私の言いたいことは言えない。そして今言いたい。という気持ちになり、その欲望のままに突き進んだ結果、生み出されたのが今回の立論だったように思います。

 

4、私の一番言いたかったこと

今回の論題では、パートナーと私の言いたいことは若干違っていて、そこの折り合いをどうつけるのか、2人でたくさん考えました。なぜなら2人の言いたいことの違いは無関係ではなく地続きだからで、最終的には私の立論にパートナーの大切にしているエビデンスを入れ込むという形で本番を迎えました。

 

ここからは、私が言いたかったことです。

今回の論題だけではなく、クォータにも、ヘイトスピーチにも移民難民にも、安楽死にも代理出産にもすべて「当事者」がいます。

我々はそういう極めてセンシティブなテーマを競技(ゲーム)の材料にして知的に楽しんでいるということは忘れてはいけないと思うのです。

 

例えば私がもしその当事者だったら、自分のアイデンティティについて他者によって勝ち負けつけられたいかな・・・と想像をしてみました。

 

仮に私がその論題の当事者なら、様々な抑圧によってあげたくともあげられない声を、ディベートという競技上で、ディベーター達が切磋琢磨した立論を、議論として吟味され、その結果、自分の声なき声が市民権を得ていくような、そのような場になるのだとしたら歓迎すると思いますし、当事者としても参加したいと思うんじゃないかなと考えました。逆に、統治的な立ち位置から、統治的目線で、リアリティのない議論がなされたとしたらとても傷つき、益々社会との分断を感じ取ると思うのです。

 

私が言いたかったことというのは、(うまく言えてなかったですけど)政策決定パラダイムかKritikかの二元論でなく、ディベートという営為において、選ぶ言葉やエビデンスの切り取り方、自分の議論が誰かを周緑化させていないかどうかを吟味しあうことで、社会をよりよく変革させていくような議論がこのコミュニティならできるのではないかという希望のある話でした。もともとその為にKritikってあるのじゃないのかなと私は理解をしていたのです。

 

5、私がそこに拘る理由

 

 誰目線からの物言いなのか、に私が拘る理由は、私の痛い経験があるからです。

私は若い頃から発達障害の特性をもつ子、疑わしい子を担任していました。今ほど情報はなかったですが、研修にも行きとても熱心に勉強をしていました。知識をつけ間違った情報や無責任なことを保護者に向けて言うようなことはしていなかったと思います。実際にクレームもなかったのです。ところが、私が当事者(発達障害のこどもの親)になった時、我が子の担任から発せられる言葉、その言葉のチョイス、矛盾する態度、など様々なことにとても傷ついたのです。その全ては、私も教師として保護者に向けてかけていた言葉でもあり、考えでもあり、態度でもあり、正しいとされているふるまいだったのです。その時初めて私は、正しさの暴力性や不条理を身をもって体験したのです。そして、正しさを補強するエビデンスはいくらでも出てくるのに、その暴力性や不条理を補強するものはとても少ないという現実にも出くわしたのです。

 

当時は自分がその立場にならないと気づけなかったという自らの愚かさに随分と絶望したものです。その痛みから「少数派の人」との対話の場を作ってきました。私達は心にバリアを持っています。バリアのない人なんていません。だから、そのことに常に自覚的でありながら、心理的にもクリティカルな態度で謙虚に「当事者」を知ろうとするコミュニティでありたいと思う気持ちが私の拘りなのです。

ただ、そこに「勝ちたい」気持ちが入ってくると、そもそものこの大事なことを今回も見失いました。質疑でも失敗しましたし、立論段階で矛盾した暴力的なことを無自覚に入れていることがありました。自分の傲慢さを今回も思い知りました。

 

6、多様であることは良いことなんじゃないかってこと

 

とはいえ、これは私の思想でしかありません。もちろん同じ考えの人がたくさんいると私は安心するでしょうし自分の正しさが認められたような気もちにもなるでしょう。ですが、私の意見と相容れない人がいるからこそ面白いのであって、リアリティがあるのだと思います。だからこそ政策ディベートを我々は行うのだとも思います。

だから、結局、様々な意見があっていいと思っています。ただ、いくら個人的な意見だと前置きしたにせよ、年齢、ジェンダー、経験、職業、立場によって、その言葉は個人だけのものにとどまらず、コミュニティ形成に少なからず影響してしまうという難しさはあるのかなと思いますし、私は今あげた年齢、ジェンダー、経験、職業、立場すべてにおいてこのコミュニティでは劣位にあると思うのであえて声をあげておきたいと思います。

 

7、このコミュニティに対して思っていること

 

私は、ここのコミュニティの中にいらっしゃるたくさんの方々にここまで育てていただいています。ここ数年は特に、今季のパートナーであった坂上さんをはじめたくさんの方に、1日10時間×3日とかいう、知的タフさに挑むトレーニングに何度もお付き合いいただいたり、読書会をしたり、学会に一緒にエントリーしてもらったり、今シーズンにおいては、私たちの議論に興味を持たれた若い人とお友達になれたり、いろんな人とお話させていただけて良いことづくしです。私にとっては言うまでもなくとても大切なコミュニティですし、自分の考えたストーリーがたとえどのような意見だったにせよ、SNSなど皆さんのプライベートな場でも話題になるなんて、間違いなく今まで絶対になかった!もちろん意見によって感情は動きますが、しかしながらそれだけでも私にとってはとても喜ばしくもあり、Kritikの奥深さに興味が沸き続けているのです。

 

8、このKritikについて

 

今思うと、一院制でやる固有性もいまいちだし、自分の言いたかったことさえ言えていないのが現状で、にもかかわらず言いたいことがたくさんあって立論の構成自体も悪いと思います。そしてこの議論をよりよくする方法については、私達の議論への考察を書いてくださったカレンダーの先の記事で逆に勉強させていただいています。と同時に、私達の議論に真摯に向き合って下さったことにとても感謝しております。これだけの皆さんが試合のあとでもこの議論について考え続けてくださったり、この問題を大事に扱ってくださったことについては、Kritikとしてある部分については成功したと言えるのではないかと私は思っています。でも真正面からKritikで試合に勝つまでにはまだまだ私のトレーニングは必要です。皆さん、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

【クリティーク】

【1AC】

【論点1】ゲーム性

競技ディベートのゲーム性には慎重であるべきです。なぜなら勝つためのテクニックが、あるべき態度よりも優先されてしまいかねないからです。

日赤広島看護大学 是澤 2012

「青沼(2006)は、こうしたディベート教育の現状を個人の能力をあげる「特技」として成り下がっていると批判した。そして、いわゆる「勝ち組」になるためにディベートで培った能力(理性)を私的に使用する問題を厳しく批判した。さらには日本の公共を例に、ディベートは「『競争』社会において『勝ち組になりたい多くの人たちが身につけたいと考える『スキル』(p2)であり、われわれディベート教育者がこのような「『私利私欲」の達成を目的になされる『一部の人のための』コミュニケーション術」(p.13)を助長してきたのではないかと自省を促した。」終わり。

したがって、より多様な人に議論を聴いてもらうためには、テクニックよりも態度の振り返りが必要です。

【論点2】ジャッジング

ジャッジは、この試合においては「日本国」の立場でみなし規定し判定しないでください。理由は、今回の論題においては、技術を偏重することに弊害があるからです。ジャッジは、現実の主体的な個人として、問題提起に共に取り組む姿勢を投票というアクションによって示すべきです。

 ビンガムトン大学 シュッツ 2013 和訳

「実在するジャッジの主義主張をラウンドに持ち込むことは、投票用紙を意味のない紙きれ以上のものにし、ジャッジを期待される教育者にすることができる。アイデンティティに基づく反省的な立場からディベートラウンドを判定することが最もこの目的に寄与する。既存の動向を隠れ蓑にすることを許さないのみならず、ラウンドの終わりにジャッジ個人を明るみにして、学生をただの優れたディベーターではなく優れた市民にすることに加速する教育の一形態の促進を引き起こす。」終わり。

【論点3】論題の肯定

■1点目。肯定側は、論題が要求する多様性という課題に取り組むことが論題を肯定していると主張します。なぜなら、それが論題の本質だからです。abcdeのeだけ取ってください。

国会国立図書館 2003

一院制にしろ二院制にしろ、それぞれ長所(メリット)と短所(デメリット)がある。まず、二院制について着目すると、その長所(メリット)としては、次のことが挙げられる。(a)立法機能という非常に強い権限を分割することにより、抑制が働き、立法府が全能となることを抑止し得ること、(b)最終決定までに一定の期間を置くことにより、拙速を避け、慎重に審議し得ること、(c)第一院の衝動的な行動をチェックし得ること、(d)国民の数を代表する第一院に対して、第二院の構成に工夫を加えることにより、国民の「理」ないし「良識」を代表させ得ること、(e)国民の多様な意見や利益をきめ細かに代表させ得ることである。なお、(a)から(d)までの点は、貴族院型、連邦制型の二院制についても多かれ少なかれ妥当することであり、民主的第二次院型の二院制の存在理由としては、(e)の理由が最も本質的なものとなる。」終わり。

 

■2点目。つまりこの論題の本質は「多様な民意の反映」です。社会の向き合い方が変化し続けている現代において、多様な民意に目が向けられるようになりました。しかし、多様な民意の合意形成には利害が相反します。だからこそ、論題において「そもそも」の部分から論じる必要があるという我々の主張は論題を肯定しています。

法政大学石坂2013

「「仮想現実」から「拡張現実」へという、社会との向き合い方である。こうした社会との新しい向き合い方に関わり、「合意形成学」から多くの発言がなされている。合意形成学において、現代の人間は意味充足を生活様式とし、個性的な<差異>や自律性が重要視されるから、全会一致や多数決を合意の条件にすることは許されないとの時代認識に立つ。」終わり。

 

【論点4】当事者性

■1点目。ここでは、【論点2】ジャッジングで述べた、この試合において、なぜ技術を偏重することに弊害があるのかを論じます。多様性を論じる時に社会的弱者の存在が議論になりますが、我々の議論そのものが、社会的弱者の存在をないものにしてしまったり、社会内の「多様性」をより欠くことになってしまうからです。

国会国立図書館副主査 平岡 2013

「「自己決定権」概念を批判する筆者の基本的な問題意識は、たとえば女性・子ども・重病患者などの表面的な選好・意思表示を「自己決定権」の行使として形式的に「尊重」することが、むしろこれらの社会的弱者に対して抑圧的に機能してしまう可能性を懸念したものであった。たとえば、「死ぬ権利」や「安楽死」について個人の「自己決定権」行使として肯定的に評価することは、結果として社会的弱者が社会内における自らの存在を「消去」することを後押しすることになり、社会内の「多様性」「多極性」を減少させることにつながってしまう。」終わり。

この試合において、例えば、「試合の外でもこの議論はできる」といった反論があるかもしれませんが、一見試合相手を尊重していると見える言説にこそ、無自覚な排除や無関心が潜んでいることを我々はこの試合において「立ち止まる」ことで言語化し、そこから議論しようと提案しています。

 

ここで言っている「無関心」とはこのような温度差のことです。

愛知淑徳大学 加島 2017

津波被害を受けた地域に住み続ける家族が「生きているのか、それとも死んでしまったのか」「仮に生きていたとしても(中略)【ママ】今この瞬間にも息絶えようとしているのではないだろうか」と苦しむ「私」は「最悪の事態も覚悟しなければらない」 状況にあるが、三鷹市役所の職員は映画を楽しむように津波を眺め「非常時って感じですよねー」と笑う。「私」はそれを見て「この人達がいなが軽く言う『非常時』は、私の『非常時』とは違う」と感じる。そこでは東京も確かに「非常時」ではあるが、地震津波の被害を大きく受けた地域が直面する深刻な現実とはかけ離れた現実を生きていることが示されている。」終わり。

これが無自覚な無関心の実態であり、この差が、無自覚な排除をひきおこすのです。多様性を論じようとするとき、この差に無自覚ではいけないのです。

■2点目。ジレンマ。はじっこに追いやられた社会的弱者が主体となり、その現状と、それを生み出す構造を変えるために参加行動をしようとする時、すでにはじっこに追いやられた存在の社会的弱者の声はなかなか俎上に乗りにくく、さらには、その当事者が抱える問題そのものが、非当事者にとってはとりとめのないことでわざわざ俎上にのっていくのが困難になるというジレンマがあります。

神戸大学 青山 2020

「それは,社会における不正義と不平等をなくしていくためには,これらの存在を認知する仕方にある偏りからまず問うこと,規範や習慣を批判的に検証すること,そしてこれらを現行の権力関係のなかで差別・搾取・抑圧されている者の側から行うことが重要だという認識論である. 「フェミニズム」はこの認識論にもとづいて運動の世界でも研究の世界でも客観的と思われていた「事実」や「科学」の男性バイアスを摘発し,個人的なこととして隠されてきた性が,公的な世界での女性差別の根源であることについて追究してきた.「主観的」で「非科学的」で「取るに足らない」といわれてきた個人の経験、性についての経験,女性として差別・搾取・抑圧を受ける当事者の経験を,運動だけでなく研究の中心にもしてきた(hooks 1984; 江原 1985; Olsen 2003).フェミニスト当事者研究がここに確立することになった。」終わり。

最終的には,社会的弱者とそうでない者との避けがたく不平等な関係をまずは私達が議論の中で見えるようにすること、そして、立場が不均衡なまま進められる議論を聞いた当事者の傷つきを想像できるかどうか、という困難を対象化し克服しようとすること自体が我々の今シーズンの可能性であることをこのクリティークで指摘します。

 

■3点目。社会的弱者とそうでない者との避けがたく不平等な関係を見えやすくすることはそんなに簡単ではありません。なぜなら、既得権益者の抵抗を伴うからです。

一橋大学 後藤 2013

「もちろん、実際には、社会制度の変更は、各制度における既得権益者の抵抗を伴うために、 容易ではない。この問題に対処するためにロールズが持ち出してきた装置が、「無知のヴェール」と呼ばれるものである。それは、社会制度を評価する際には、自己の社会的地位や財産、技能や性質、嗜好など、私的利益に関連する情報は一切顧みてはならない、とする一種の中立性の要請を象徴する。【中略】後者は、例えば、女性であること、障害をもつこと、歴史的不正義や犯罪の被害者であることなどは、まさに社会制度を評価する観点となるべきものだから、覆い隠してはならないという批判である。」終わり。

 

この論題を議論する上で我々に無自覚な部分について、一点目として社会的弱者とそうでない者との避けがたく不平等な関係をまずは私達が議論の中で見やすくできたか、そして、二点目として立場が不均衡なまま進められる議論を聞いた当事者の傷つきをこの試合において想像できたかどうか、という具体的なこの2点において、この困難を対象化し克服しようとすること自体に我々が成功していたら我々にボートしてください。

 

【2AC】

【論点5】特権

■1点目。覆い隠す側には覆い隠している自覚がもてないことを「特権」という言葉を使って説明します。

上智大学 出口 2020

「「特権」(Privilege)は、ある社会集団に属していることで労なくして得る優位性、と定義される。ポイントは「労なくして得る」で、努力の成果ではなく、たまたま生まれた社会集団に属することで、自動的に受けられる恩恵のことである。【中略】特権とは、ゴールに向かって歩き進むと次々と自動ドアがスーッと開いてくれるもの、と考えればわかりやすい。自動ドアは、人がその前に立つとセンサーが検知して開くが、社会ではマジョリティに対してドアが開きやすいしくみになっており、マイノリティに対しては自動ドアが開かないことも多い。マイノリティはドアが開かずに立ちはだかるため、ドアの存在を認識できるし、実際認識している。しかし、マジョリティ側はあまりにも自然に常に自動ドアが開いてくれるので、自動ドアの存在すら見えなくなってしまう。特権をたくさんもっていても、その存在に気づきにくいため、マジョリティ側は自分に特権があるとは思っておらず、こうした状況が「当たり前」「ふつう」だと思って生きているのである。」終わり。

 

■2点目。例を出します。特権を持つ人の多く集まる行政側が障害者差別を自他共に認識できないことに問題の本質が隠されています。我々も同じようにそこにある本質を捉えることができないままに行政の「善」を例えばメリットのように提出したり、「善」という前提でジャッジをしたり、肯定否定にわかれて「議論」をしたことだけで多角的に議論できたつもりになることは往々にしておこります。

先の是澤

 「リハビリテーション (社会復帰)」 この言葉ほど障害者にとって屈辱的な言葉はない。他にそういう障害者をさげすむ言葉はあるにしても、それは障害者を罵倒し、はずかしめるものであることを障害者側もそれを言う側もよく承知しているのに比べて、リハビリテーション (社会復帰)は行政の行う福祉という観点からそれは「善」であり、むしろ正義として位置づけられているところに問題があり、言い知れぬ恐ろしさを感じるのである。(横塚 、1975、2007、p146)【中略】そして、この「治る」ということは「健全者になる」ことであり、健全者を至上(正義)とし、障害者を否なるものと位置づける思想を糾弾した。さらに問題は行政が「リハビリテーション」を「善」として障害者に強要することだけにとどまらず、「リハビリテーション」ということばそのものを無批判に善として決めつけ、社会に定着させたことである.このことが言説の資源を十分にもたない障害者問題をより一層難解にさせている。つまり、行政側が障害者差別を自他共に認識しない(できない)ことに問題の本質がある。」終わり。

 

【論点6】インパク

■1点目。全ての試合において、ジャッジの投票はディベートとは何かを決めていく影響力があります。

 先の是澤 2002

「矢野よしろう現JDA副会長は、ディベートにおけるジャッジの存在を以下のように記している。ジャッジは言うまでもなくディベートの勝者を決める。しかしジャッジの影響は、特定の試合にだけ及ぶだけで、おしまいになる訳ではない。ディベーターは、勝ちやすいディベートのスタイルを選択していく。そうなるとジャッジは、試合で勝者の選択していくことにより、結果としてディベートのスタイルも選択していくのだ。つまりジャッジは、 多かれ少なかれディベートとは何かを決めていく存在でもあるのだ。ディベートにおけるジャッの存在は大きい。(189)つまりディベーターはジャッジに適応することにより、勝ちやすいディベートスタイルを確立しているのだ。」終わり。

 

■2点目。我々は特権があることに無自覚であるが故に、立場が不均衡なまま議論をしたつもりになっていてもそれを見過ごしてしまうだけでなく認めたくないという心理的状況に陥ります。

ダイアンJグッドマン 2017

自分自身を特権的あるいは優位と認めることに反発する人は多い。自分に特権があるという考え方を受け入れられない人もいれば、特権があることは認めても、そのことに不快感を覚える人もいる。こうした反応にはいくつかの理由がある。

第一に「特権的」「優位」あるいは「抑圧者」といった言葉には否定的なニュアンスがある。故意に他者を差別したり虐待したりする人間のことだと多くの人が考え「悪いやつ」のことだと思う。大半の人は自分自身が悪いとは考えておらずそのように考えようとも思わない。自分たちは他者を公平に扱う思いやりのある人間だと考えている。

第二に、たいていの人は自分が特権集団に属していることや、社会的権力を持つ集団の一員であることに気づいてすらいない。これまで述べてきたように特権集団に属する人々の大半はそうしたアイデンティティについて考えることがない。自分たちはあくまで「普通」と認識しており制度的な不平等がどれほどおおきなものか、自分たちがどのような形で恩恵を得ているのかを理解していない。自分の持つ特権に気づいていなかったり、自分の努力で特権を手に入れたと感じたりしている人にとって特権集団の一員であることを受け入れるのは難しい。たとえ特権集団の人々が自らの社会的地位を自覚していたとしても、特権や権力を持っていると「感じて」はいない。おわり

 

総じて、多様性を議論する際に抱えるこの「困難」をまずは見える化し、克服しようとすることに、論題肯定の範囲内でチャレンジしている我々に優位性があります。

 

 

【15日】阿部さん: 零院制に国民投票は必要か

0.はじめに

はじめましての方ははじめまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。本日は私の担当ということで、JDA決勝でも否定側チームが回していた、零院制カウンタープラン(以前のディベートアドベントカレンダーで選手の方が原稿を公開されているので、詳しくはそちらを参照してください)に対する反駁原稿を紹介していこうと思います。

ただし、零院制に対する反駁原稿といってもJDA勝戦で提出されていた形式のカウンタープランを論じたものではありません。実は、私がJDAに引き続き出場した大会、CoDA全日本でも複数のチームが零院制カウンタープランを回していたのですが、その議論を回していた方々は皆元々の制度設計から、国民投票制度を削除した形で立論を作成していたのです。おそらく、国民投票の部分から発生するデメリット(衆愚政治とか、マイノリティ排除とか)を避けるために国会廃止のみで勝負しよう、と思われたのかもしれませんが、そういう制度を前提とするとJDAの時とはまた違った議論展開になってくるでしょう。実際、当該チームとは大会当日に対戦しましたが、JDAの練習試合とは中々違った試合展開となりました。ということで、今回はこうした「国民投票制度がない状態での零院制」(便宜上全日本版零院制と呼びます)に対する反駁原稿を、検討してみます。

なお、以下で掲載する原稿はCoDA全日本のチームメイト、斎藤君と加藤君と協同で作成したものです。正直大会全体を通しても二人には引っ張ってもらいっぱなしだったので本当に感謝しています。

1.カウンタープランの非命題性

さて、「国民投票がない零院制を考えてみよう!」といったものの、我々の反駁原稿はカウンタープランの非命題性に対するチャレンジから始まっております……国民投票関係ないので読み捨てていただいても構いませんが、実はJDAではそれほど話題にならなかった部分かなと思うので、記事の前振りとして一応掲載しました。

・非命題性に対するアタック原稿

まず、CPの非命題性について、反論します。ここでの肯定側の主張は、否定側のCPはtopicalであるということです。
最初に、一院制についての定義を行います。
政治学者 田中浩はニッポニカで一院制を「国民の代表機関である議会が一つの会議体だけで構成されているもの。」と述べています。
(出典:https://kotobank.jp/word/一院制-31215)

これを踏まえて、議会とは何かについての定義を述べます。
同じく田中浩はニッポニカで議会についてこう述べています。
民主主義国家における国民代表的性格をもつ会議体。議会は別名立法府(立法部)とよばれるように、その主たる権限は立法権にある。終わり。
(出典:https://kotobank.jp/word/議会-49965)

続いて、否定側のCPが一院制と同一であることを説明します。
否定側の主張は、国民から選ばれた首相が大臣を任命して閣議で政策を通過・実行するというものでした。
しかし、先の定義に従えば、否定側のCP下の内閣は
1、国民を代表しており、
2、内閣単体で立法権を保持し、
3、その唯一の会議体である閣議で議会が構成されているため、
一院制の議会といえます。

ここで、注意していただきたいのは、議会は国民を代表してさえいれば、必ずしも公選である必要はない、ということです。
これは、イギリスの上院など、非公選の議会も存在することからも確認できます。
さらに、今回の否定側の場合、首相選挙を通じて議会の構成員を間接的に選ぶので、アメリカ上院議会と同じような制度設計と考えることも可能です。

であれば、このCPに非命題性はないと考えるのが自然です。
CP下でも単一の議会が存在するので、CPの擁護で一院制を否定することはできません。
よって、CPを否定側へのvoterにすることはできない。

これは、肯定側のプランでも同じ制度を採用可能であることを考えれば、よりわかりやすいです。
NEG.のCPは、AFF.が
1、全国1ブロック・定数が首相+大臣の人数分の衆議院を構成する
2、そのうち、1人を選挙で選び、小選挙区制で選び、他はその1人に選出させる
3、同時に国民投票も採択する
というプランを提出したのと一緒です。
少なくとも、CPがtopical counter planと考えられるのは自然です。

以上が非命題性に対するアタックとして用意していた原稿です。いちいち英語で書かれていてしゃらくさいと思う方は適宜脳内でカタカナに変換してお読みください。

チームとしてこの原稿を用意する際、強く意識していたポイントは大きく分けて2つです。まず1つは、「議会は国民を代表してさえいれば、必ずしも公選である必要はない」という主張は、実例などを踏まえて手厚く行おうということです。おそらく否定側からすれば、「立法権を持っているだけでは議会と呼べない」ことの理由付けとして一番使いやすいのは、議会は国民の選挙で選ばれた議員によって構成されなければいけないという話でしょうから、ここの論点は我々としてもかなり力を入れて証明しなければならないことになります。ただ、個人的にはここはイギリスやアメリカの実例を見れば明らかなように、結構しっかりと詰めていけば大分肯定側有利な論点だと思っています。今回はスピーチの時間的制約上省略していますが、「国民を代表する」ことと「選挙で選ばれている」ことがイコールではないことはもう少し論理的に説明できると良かったですね……この辺りは詳しく議論できる方がいらっしゃればぜひコメントいただきたいです。

そして、もう1つのポイントはただ単に定義の観点で争うだけではなく、「否定側の想定する状況は肯定側のオプションの範囲内である」と示した点です。どちらの定義が妥当かという争いに終始するとジャッジが混乱しやすいということもあり、より具体的なイメージを抱いてもらうように意識しました。

さて、今度はこうしたチャレンジに対する再反論の検討に移りましょう。否定側としてはカウンタープランが命題的だとなればその時点でほぼ負けが決まってしまうので、当然零院制下の閣議は国会ではないという主張をしてくるでしょう。(弟曰く1NRでターンアラウンドを打ちまくって現状維持との比較でもプランは論題を肯定できない、という帰着にするのが一番強いそうですが、そんな超人プロレスを想定しはじめるとそもそも1ARが崩壊するので却下します。大体一院制論題でそんなにターンアラウンドの議論ないでしょうし)

実際に出ていた再反論は、2NRで日本国憲法43条を引用し、議員が国民の選挙によって選ばれていなければ国会とは呼べない、そして今回の論題主体は日本なので国会の定義は日本の憲法に従うのが妥当だ、というものでした。これについてはどちらの定義の方が妥当なのかとか、そもそも肯定側の主張する論題充当性がリーズナブル(多分Reasonableと書くべきでしょうが綴りに自信がないのでカタカナで書きます)であればその時点でカウンタープランを棄却して良いのではないかとか色々な議論が出てくるはずです。ただその辺に踏み込み始めると個々人のジャッジフィロソフィーが大きく影響してくるのでいったん脇に置いておきます。この辺の話題を話したい人はコメント欄なりTwitterなりでまた議論していただくとして、この記事では私なりの判断を掲載します。

結論から言うと、私はこの基準を採用するのは難しいと考えています。何故なら、日本国憲法に則って「国会」を定義するならば、42条の「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」という規定が問題となり、一院制論題そのものが自己矛盾をはらんだ命題となるためです。実際の試合でも2ARで同様の主張を行い、結果的にカウンタープランは命題的だという判断になりました。

しかし、試合が終わってからこの議論を再検討してみると一つの疑問が湧きます。今回の論題は「日本は国会を一院制にすべきである」という文言でしたが、これはプランを導入した後の立法機関も「国会」である必要はあるのでしょうか?より分かりやすい例文として、「私はタヌキをはく製にする」という文章を考えてみましょう。この時、私が動作を行う対象は生物としてのタヌキでなければならず、キツネでも駄目だしタヌキの人形でも多分駄目です。しかし、動作が終わった後の目的物は、インテリアとしてのはく製であって、もはや生物としてのタヌキの定義は満たしていません。もしもこれと同じ構造だとするならば、一院制論題は日本国憲法の定義を採用したとしても自己矛盾をはらまない命題となります。ただし、その場合でもプランを導入した後の「一院制」については日本国憲法の定義をあてはめる必要がなくなってしまうので、どちらにせよ日本国憲法の定義を用いて非命題性を証明するのは無理そうです。そう思うなら端から書くな、という話ですね……

以上のことから、零院制カウンタープランの非命題性に対するチャレンジは結構見込みがあるのではないかと思います。少なくとも、否定側としては議会の定義についてある程度用意しておかないと返せなさそうですし、そもそも諸外国の制度を踏まえると非命題的だというのは結構しんどいのではないでしょうか。

2.カウンタープランにおける独裁の危険性

さて、先ほどの文章を読み飛ばさなかった方からすると「もう話終わったじゃん」という感じかもしれません。実際私も記事を書き進めていて「これ優位性の原稿要るか?」と思い始めました。しかし油断大敵です。何しろこの記事を書いているのは「ステータスクオ」と聞いて「クオーター制のこと話してんのかな」と思うような人物です。先ほどの非命題性の議論も有識者の目から見ればあり得ないような間違いが含まれているリスクは十分にあります。それに優位性の論点の話をしない場合、本格的に記事のタイトルがただの嘘になってしまいます。
ということで、全日本版零院制の優位性に対する反駁原稿をご覧ください。

・優位性に対するアタック原稿

まず、論点A、国会議員が駄目という話について。
否定側は、Aの部分で、議員が選挙区への顔見世ばかりで政策論議をしていない(中原2010)と主張しますが、実際には、国会議員は国会の仕事をしながら地元の声も吸い上げ、それを国政に生かそうとしています。
2009年、衆議院議員 高市
「この4年間、平日は国会や役所での時間をフルに使って全力で働き、週末に帰県した折に伺った奈良2区の方々のお声を参考にしながら、議員立法や制度の運用改善、奈良県内各市町村で必要な予算の手当て、時代の一歩先を見た多くの法制度作りにも取り組んできたつもりです。」
否定側は地元への顔見世と揶揄しますが、実際には国政のため重要な活動ですし、それで仕事をおろそかにすることもありません。否定側のプランでは、このような意見の吸い上げも行われなくなります。
(出典:https://sanae.gr.jp/column_detail91.html

論点B、公選首相で適切に民意が反映できるという論点に対して。
1点目、公選された首相が適切に民意を代表する保証はありません。任期中は外部から法律を差し止めることはできないのでもし過激な政策を行っても止めるすべがなく危険です。
2点目、閣議の構成員も結局は首相に人事権を握られているため暴走に対するストッパーにはなりません。
首長を公選する地方自治体の分析。
2021年、東京新聞
「首長に与えられている職員の人事権も暴走の温床になる。「厳しい意見を言う職員を遠ざけ、お気に入りで脇を固めるといったことが起こり得る」(今井氏)。残るのはイエスマンばかり、となりかねない。」
出典:https://tokyo-np.co.jp/article/125656/2

よって、閣議も暴走のブレーキにはなり得ません。地方自治体においては、地方議会やリコール制度でストップをかけられますが、今回のネガにおいては、国会がないので、権力抑制できない。
3点目、彼らは任期の終わりに選挙があるから大丈夫というかもしれませんが、こうした選挙制度すら首相によって変更されます。公選大統領のヒトラーの例。
ジャーナリスト 熊谷 2013
ヒトラーという犯罪者が最高権力を握ったのは、クーデターによるものではない。(中略)ヒトラーは権力を握るや否や、社会民主党共産党などの野党を禁止し、ユダヤ人に対する迫害を始めた。ドイツ国民が自ら選んだ政治家が、民主政治の息の根を止めて人権侵害に乗り出したのだ。(終わり)
出典:http://newsdigest.de/newsde/column/dokudan/4875-948/

これはナチスドイツのジャストワンケースとして棄却しないで下さい。権力を長く握りたいと首相が考えるのは普通でしょうから、その時にそもそも選挙制度を変えてしまえば良い、というのは常識的な発想だと思います。
実際に、現状でも例えば安倍首相が自民党の総裁任期を延長しています。
日経新聞 2016
自民党は26日午後の党・政治制度改革実行本部の全体会議で、党総裁任期をいまの「連続2期6年」から「連続3期9年」に延長する案を決定した。党の意思決定機関の総務会で年内に了承する見込みで、2017年3月の党大会で党則を改正する。【中略】出席者によると、任期延長に関する反対論は出なかった。(終わり)
出典:https://nikkei.com/article/DGXLASFS26H2A_W6A021C1000000/

このケースは党内人事の話でしかないですが、首相の任期に関して同様の事態が起こると選挙は実質的に機能しないでしょう。最終的にこういった独裁の危険も十分あります。
4点目、暴走した首相は最悪の場合、人権抑圧的な政策を実行します。これは4年の任期でも十分に達成されます。
授権法によって立法権限を全権委任されたヒトラーの実例。
ホロコースト記念博物館HPより、
1933年3月23日
(中略)「授権法」と呼ばれるこの法案をナチ党、保守党、カトリック中央党が支持します。この法案により、4年間ドイツ議会に決議案を提出せずに法律を布告できる権限がヒトラー政権に与えられます。(中断)
出典:https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/nazi-rule?series=71

議会を通さずに法律が制定できる、まさにカウンタープランと同じ状況を作っています。そして、彼はこの権限を用いて、わずか4ヶ月で断種規定を作成しました。
(再開)1933年7月14日
ナチス国家による民族純化法の制定(中略)
身体又は精神に障害のある個人が子供を作ることを好ましくないとし、断種手術を強制的に義務付けます。この法律は、その後18か月間にわたって約40万人に適用されます。(終わり)
出典:https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/nazi-racism
3点目で述べたように、任期自体が引き延ばされることもあるので、こうした被害はより甚大と言えます。

如何でしょうか。この原稿にも非命題性に対するチャレンジと同様、私とチームメイトのこだわりポイントがいくつか存在します。中でも一番こだわった論点は、「カウンタープラン下では首相が選挙制度を好き勝手にいじってしまう」という話です。私としては、直接的な人権制約施策よりもこの現象が一番危険だとさえ思っています。全日本版零院制の場合、首相の任期中は立法活動における拒否権プレイヤーが誰もいないので、選挙制度を自分に有利なように変更するとか、そもそもの任期を無限に延長するとかしても止めるすべはありません。そうなると完全な独裁の完成です。

そして、この議論を展開するためにはある前振りが非常に重要になります。それは、肯定側質疑でカウンタープランの制度設計に対して「首相の選出方法と任期」を法律で定めるのか、憲法で定めるのかを聞いておくことです。ここで否定側応答が「法律で決めます」とか答えた場合はまさに1ARが好きに暴れられます。(弟は「法律か憲法かって二択で聞くと目的がばれるから『法律で決めるんですよね?』ぐらいのさらっとした聞き方が良い」とか言ってましたが皆さんは真似しないでください)

逆に、否定側としてこの議論に再反論するならば大まかに分けて2つほどの方法があると思われます。一つは、カウンタープランを憲法で決めてしまう、憲法の人権規定で首相を拘束するといった日本国憲法の力を最大限活用するという方法です。ただし、これは結構厳しいのではないでしょうか。何故ならば、そもそも1AR原稿で想定されているような、過激な首相が選ばれる事態においては、国民も首相を支持するだけの過激な社会風潮にのみ込まれている可能性が高いです。そうなると、各種憲法規定が国民投票によって改正される危険は一定程度あり、果たして本当にストッパーとして働くのかは大分怪しくなってきます。この観点からすると、国民全体が何か一つの価値観にとらわれる、という事態がそもそも危険なだけなのかもしれません。この辺りを深めていくと意外と面白い論題になる気もします。

もうひとつの筋としては、一院制にも同様に独裁のリスクがあると指摘することが考えられます。実際、原稿中で挙げているヒトラーの実例も元はと言えば議会が授権法を成立してしまったことが要因の一つにはある訳ですから、一院制下で多数支配をするような為政者もカウンタープラン下の首相と同じようなリスクを負っている、と主張することは可能でしょうし、この議論は一定程度説得的と思われます。しかし、プランの場合は議会が授権法のような規則を作る、というかなり蓋然性の低い事態を想定しなければいけないのに対し、全日本版零院制はもう授権法を制定したところから事態がスタートしている訳です。こう考えるとたしかにやや不明確な部分はあれど、一院制と全日本版零院制の間には独裁リスクの観点で大きな溝があるといわざるを得ません。

以上のことを踏まえると、否定側として優位性の論点は打つ手なしとは言わないまでも、全日本版零院制で明るい未来を描くのは大分しんどそうです。そう考えると、2NRで国民投票に関する実証研究を読みまくる超人プロレスを覚悟のうえでJDA版零院制を回した方が現実的なのではないでしょうか。(また、制度としてもその方が妥当な気がします。)

【14日】佐藤さん: ぼくらの待鳥紹介

0.はじめに

みなさんこんにちは。

立華高校ディベート部OBの佐藤です。

今回は、弊チームがJDA秋期ディベート大会(とCoDA全日本)で使用した原稿の中から、気に入っているカードたちを紹介し、供養します。

1.待鳥聡史先生について

今回扱う議論は、基本的には京都大学法学科・京都大学公共政策大学院教授の待鳥聡史先生の論考を元に構成されています。

待鳥先生の生い立ちについてはWikipediaなどを参照して頂ければと思うのですが、先生はお若いながらも比較政治学アメリ政治学の分野で様々な功績を残しており、学者として大変評判の高い方です。最近では、京都大学大学院の公共政策連携研究部長・公共政策教育部長に選出されるなどしており*1、またその容姿から一部では「京大のプリンス」などと呼ばれているそうです。

弊チームのメンバーは何かと待鳥先生と関連がある方が多く、プレパをしていくうちに気がついたら待鳥先生のエビデンスが大量に集まっていました。不思議ですね。

2.具体的な議論

さて、具体的な議論の紹介に移りたいと思います。

その1.「参院では多様な民意を反映出来る」系への反論

こちらの原稿は、JDAでパートナーだったののやまさんに執筆いただきました。

ブリーフ

【1AC】

重要性

議会制民主主義においては、選挙で信任された政党が民意からある程度の自律性を持って政権を担当することになりますが、政党が有権者からの信任を得られるためには、互いに競争するような環境が重要です。

京大、待鳥、2015年*2

『今日の政府は、効率性が欠けていては運営できないが、公平性がもたらす有権者の同意がなければそもそも存続できないのである。(中略 *3 )代議制民主主義は、政治家が一般有権者より優れた資質を持っているからと、彼らが常に何でも決めて有権者に押しつけることを認めていない。反対に、有権者の意向が政策決定に常に反映されることを理想としているわけでもない。むしろ、委任と責任の連鎖関係に基づいて、有権者に対して定期的に説明責任を果たしつつ、政治家が一定の裁量と自律性を保ちながら相互に競争することを想定している。』おわり。[e159]

 

その実現のためには、選挙において信任された政権が一定期間政権を担い、その評価を選挙における政党間競争から有権者が審判をくだすという、責任政治の完遂を目指すべきです。

成蹊大、高安、2018年*4

『総選挙により、権力をひとつの政治勢力に委ねることで、その政治勢力は一貫性のある政策プログラムを推進できる。その一方で、一定期間を経て政策運営に失敗すれば、その政治勢力は次期総選挙で排除される。有権者は、権力の担い手を選択してこれに権力を委ね、同時にこれを排除する権能をもっている。これが責任政治の要諦である。』おわり。[e528]

 

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【2AC_DA・Impアタック】

vs 政党を介した民意の反映 / 比例代表部分の民意が反映されやすい参院を維持するべき

1.そもそも議会制において一時的に盛り上がった民意を政策に反映させることは望ましくありません。

名古屋大、大屋、2012*5

『つまり、人民は短期的には結構、間違う。もちろん最終的には人民の意志に国は従うべきだし、それが民主主義ですが、人民自身もあとになって後悔するような短期的な判断や意志決定にフラフラさせられるのはやめようという発想です。(中略 *6 )例えば60年安保・70年安保という運動があり、それぞれその瞬間に東京の一部の地域では非常に盛り上がりましたが、50年経ったいま、あの日その場所で主張されていた内容が正しいと思っている人は、ほとんどいないのではないでしょうか。短期的に盛り上がったとしても、長期的には敗北したわけです。』おわり。[e612]

よって、無条件に民意を反映することが望ましいとは必ずしも言えません。

 

2.ではどうすべきかというと、価値観が多様化し全面的にとある政党を支持するというようなことが困難となった現代においては、一定の意見集約が行われた二大政党内部で議論し決定するというあり方が求められます。

京大教授、待鳥、2021年*7

『ですが、これほど価値観が多様化し、人々が政治に対して求めることもバラバラになっている社会においては、個々人の関心や好みと政党のアジェンダを完全に一致させることは不可能でしょう。どの有権者にとっても、ある政党をすべての面で支持するということは、もはや想定できないのです。(中略 *8 )だからこそ、二党制のように党内分派や意見対立が不可避の組織の中で、意見が異なる人同士が議論することの価値は見直されるべきです。親しい人、意見の合う人と強くつながるためではなく、政党の中で議論し、多様性の中から1つの結論を導き出していく重要性を考えていく必要があります。そのような幅広い議論を機動的に積み上げいくためには、党内論争が起こりやすく、新しい技術的な挑戦も容易な、二党制の仕組みを再評価すべきだと考えています。』おわり。[e583]

よって、国民のバラバラな意見ではなく、政党で集約した意見を基に政策を議論すべきです。それが政権の責任追及の文脈で行われるべきことを示しているのが肯定側です。1ACの重要性を確認してください。

 

3.さらに、国民にとっても、法案の結果に対して事後承認せざるを得ないことがあるかもしれませんが、やってみなくちゃ分からない現代では政策の結果を一度経験した上での民意を反映させていく方がより重要です。

東大、宇野、2013年*9

『場合によって、人々は行為の後になって自分の意思を発見する。行為の最中にははっきりしなかったものが、終わってみてようやく「自分はこうゆうことをしたかったのだ」とわかることがあるのである。そうだとすれば、行為の前にその理論的根拠や格率を探すよりは、むしろ行為を通じて人々が自らの意志を確認していくことの方が重要なのかもしれない。(中略 *10 )民主主義もまた、時間の中で生成変化していくような、動的イメージを取り入れる必要がある。』おわり。[e602]

よって、国民の即時的な民意をじっくり反映させることは積極的に評価できる価値観ではなく、むしろ一度政策の結果を受け入れた上でその経験を活かして民意を反映していく世界を目指すべきです。

 

ポイント:

  • 1ACで、「責任政治の要諦」を達成するために政治勢力を競争させるような政治空間の整備が求められるという方針を打ち出す
  • その背景を2ACのDAアタックの文脈から補強しつつ、(典型的な)DAの「多角的な民意反映」に対しては、以下の3つの視点からアプローチ。
    • 1)民意をとりあえず政策決定過程に反映することが無条件に望ましいとは限らない
    • 2)民意の汲み方として、多党制の下での政党単位の表出は時代適合的ではないし、望ましくもない
    • 3)仮に政党単位での民意の表出に大きな価値があるとしても、一度結果を受けてからの民意を形成し反映するというプロセスにも一定の意義はある

2)について補足。

現代の価値観の多様性という視点を軸にして、多党化のもと政党単位でそれらを汲み取ることは原理的に不可能、かつ政党単位で意見が凝り固まってしまい政党間の議論が期待できない(→政策に基づく政党間競争の弊害になる)という点から、ざっくりした民意を包括政党がまず汲んで政党内部の議論をぶつけ合わせることで合意を見出すという方針を主張する

1)2)3)から、参議院の固有性として論じられる、2回目を踏むことによる多角的な視点を取り入れた慎重な審議、の固有の意義はないのではないか?であれば、より優先するべきは、政治勢力が競争的に政権獲得を目指す空間であり、まさに責任政治の達成である、と肯定側の重要性の優位性をみせる。

 

========

ちなみに、近い議論としては以下のようなエビデンスも用意していました。エビデンスとして読むときもちよくなれるという事もあり、ここで紹介します。

【2AC:DA Attack】

1.彼らは少数利益を出来るだけ反映させるべきだと主張していましたが、代議制民主主義において政党を前提とする以上、利害の集約は不可避的に行われているため、多党制が望ましいという議論は一義的に評価されるものではありません。

京大教授、待鳥、2018年*11

『そもそも、政党の存在意義の一つは、意見や利害関心を集約することで政策決定を迅速化したり、有権者が判断しやすくしたりするところにあります。その意味で、政党が存在する政治である限りは、必ずどこかで集約の作業が行われているはずなのです。それが、どこまでやればやり過ぎで、どこまでだったらいいのかというのは、いったい誰が決めるのでしょうか。政党が一つしかないのが問題であることは確かです。しかし、二つの政党よりも三つ以上の方がいいと、なぜ断定できるのでしょうか。七つや八つの方がいいとはなぜならないのでしょうか。この点についても十分議論をしないと、多党制のほうが優れているとか、比例性の高いほうが望ましいとか、一概にいうことはできません。』おわり。[e205]

→読んでいて楽しい。

 

京大教授、待鳥、2015年

『しかし、現実の有権者は多様であって議会がその純粋な縮図になることがかえって問題を引き起こす場合もある。日本を含めた一部の諸国が取り組んだ政治改革では、このような認識に基づいて、エリート間の競争を促し、権力の担い手の定期的な交代を目指した。すなわち、議会が有権者の多様性を反映した構成になっているために、民意に忠実であろうとすれば多岐にわたる利害関係者に配慮しすぎることにつながり、既得権益の過剰な保護、政策決定に時間がかかりすぎること、あるいは必要な政策転換ができないことが問題だという認識である。それよりも、エリート間の競争で多数派と少数派を画然と分け、まずは多数派の意向に従った政策決定を行い、好ましくない政策が展開されるようなら次の選挙で多数派と少教派が入れ替わる。その入れ替えを通じて相互抑制も作用する。このような仕組みの方が良いというわけである。』おわり。[e598]

京都大学法学部教授、待鳥聡史、『代議制民主主義』、2015年11月25日発行、中央公論、p.120-121

 

[e595]民意にそった決定をすると政策決定が困難になる場合がある。[book]

京大教授、待鳥、2015年

『他面において、民意を反映することに重きを置くあまり、政治は困難な課題に取り組めなくなり、有権者の歓心を買うための利益配分ばかりが行われるようになるという批判も登場した。アメリカの政治学者サミュエル・ハンティントンらが、1970年代半ばに提示した「ガヴァナビリティの危機」論である。ガヴァナビリティは被統治能力と訳されることもあるように、社会が困難な政策決定を受け入れる能力を指す概念で、それが先進諸国においては各種の要求の噴出によって低下しているというのが、この議論の主眼であった。その少し後、民意の尊重がもたらす課題に同じく注目して、NIMBY問題という言い方も登場した。NIMBYとはNot In My Back Yard(うちの裏庭でなければ)のことで、典型例としては、ゴミ処理場のように社会にとって必要な施設が建設候補地の住民の反対によって建設できない場合が挙げられる。政治参加を拡大すればするほど、政策決定に表出される民意は多様になり、民意に沿った決定は困難になってしまうのである。』おわり。[e595]

京都大学法学部教授、待鳥聡史、『代議制民主主義』、2015年11月25日発行、中央公論、p.70

→肯定側の思想に非常にマッチしている。使いやすい。

その2.政治改革系の観察・内因性系の議論

こちらは、先のCoDA全日本大会で私が使用した議論になります。

余談ですが、内因性で登場する建林先生は待鳥先生と同じ京都大学の教授になります。年齢的にも近く、お二人は大変仲が良いそうです!

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【ブリーフ】

観察

1990年代以降の政治改革の目的は、政治の最終的な責任を有権者に求めるため、有権者が政治の責任を追及できるシステムを形成することにありました。

京大、待鳥、2020*12

『具体的にいえば、改革が目指したのは、日本の公共部門における様々な意思決定において、自律した個々人がより積極的かつ広範に決定に加わることであった。日本社会を構成する有権者が政治権力を自らの責任で作り出し、行使し、その結果を引き受けること、といってもよいだろう。政治権力の行使を実際に担う政治家や官僚の側から見れば、その権力が国民の意思に由来しており、常に国民からの監規を受けているとともに、不適切な行使を行った場合には責任を問われ、場合によっては権力の担い手としての地位を失うことを意味する。』終わり

 

この理念に基づき、衆議院を二大政党制に近づけるため、選挙制度小選挙区制に改めましたが、参議院は手つかずとなっており、結果的に政治改革を後退させています。

同資料から*13

『マルチレヴェルミックスを考慮すれば、制度変革を行わなかった領域の存在は、その領域にあわせるように他の領域の変革がなされる場合を除いて、異なった方向性での変革がなされた場合と同じく、変革の効果を減殺することになる。1990年代以降の政治改革を振り返るとき、いくつかの重要な領域が改革されないまま残ったことは、大きな意味を持った。そのような領域の一つが、国会とくに参議院である。』終わり

 

(中略)

 

内因性2.また野党の側も、参議院において、修正などよって自らの利益を反映できることから、政権を獲得する必要がなく、与党に対抗する第二党としての役割を果たせずにいました。

政策研究大学院大、増山、2015*14

『従来の国会研究において強調されてきたことは、野党が国会の制度慣行を活用し、一般的に言われるほどに無力ではなく、立法的な影響力を行使しているということである。(中略)国会の抱える問題は、野党が野党のままで立法的影響力を部分的に行使し得るとともに、野党が政権の受け皿として結束するのではなく、野党のままで支持集団の個別利害に応えることに活路を見出し国民に政権選択の機会を提供してこなかったことにある。』終わり

 

この影響は実証されており、参議院の存在が、責任ある政党政治の実現を阻害しています。

京大、建林、2017*15

『第二に、しかしながら日本の政治アクターにとっては、参議院や地方政治というアリーナも非常に重要なものであったが、その政治制度は、政党組織の集権化、二大政党制化という衆議院アリーナにおける変化の方向に裨益するものではなかった。これら二つの政治アリーナにおいては、政党よりも政治家個人が選択される傾向にあり、結果的に参議院地方政治の制度配置が、衆議院における選挙制度改革の効果を抑制し、強い一体性を持った政党が、政策をめぐって対峙する責任ある政党政治を阻む作用を発揮した。』終わり

ポイント:

  • 選挙制度改革の目的を「責任の帰責」という点に着目し、現状野党が統合できていない理由を参議院に求めることで二大政党制の確立を目指す
  • 試合中よくある、「日本の野党は統合できない」や「小選挙区制は一強多弱を生み出す」などの反駁に対するカウンターとして、「それは全て現状の話で、根本原因は参議院」と反論する(解決性に「責任が明確になれば与野党に自己改革のインセンティブを与える」というエビデンスを読んでおく)。
その3.制度論

こちらの議論は、JDAのもう一人のパートナーである明海さんよりご寄稿頂きました!

 

JDAシーズンで回そうとして結果的に断念した筋の一つに、「制度論の貫徹」というものがあります。制度論とは、制度というゲームのルールが人間の活動に大きく影響を与え、ある特定の方向に仕向ける効果をもつと想定する諸理論の総称です*16。制度論の中にも様々な議論がありますが、我々は上で紹介した待鳥先生が共著者の1人である『比較政治制度論』(有斐閣、2008年)で主張される合理的選択制度論に立脚した筋を構想していました。合理的選択制度論とは、①個人が社会を形成し、社会は個人に分解される、②個人は行動に先だって目標をもち、その目標を可能な限り実現しようと行動する、③制度は個人の行動の選択肢や行動の帰結を規定するとともに、個人の行動の集積が制度を変化させるという3つの要素を中心とした制度論の一つの考え方です*17。このような合理的選択制度論の視点に立てば、試合でしばしば見られる個別政策の成功/失敗、過去の政権運営が上手くいった/いかなかったという政治的帰結のみを示す議論は、その政治的帰結が当時の為政者といった偶然の要素によって生じたものなのか、制度に裏付けられた安定的なものなのかが不明であり高く評価することは出来ないと考えられることになるでしょう。このような制度論の立場からすれば、当然制度設計を行うに当っても偶然ではなく制度的な安定が重視されることになり、そのことを端的に示したエビデンスが以下のものです。

【資料集より】

[e584]民主主義体制の安定のためには個人の素質よりも制度デザインの方が重要である。

京大教授、待鳥、2021年

『もう1つ大事なこととして、いい政治家を選べばいい政治をしてくれるだろうという発想は、代議制民主主義との相性が意外によくないということです。民主主義体制を安定させるには、平均的な人であっても、きちんとした手続きや議論を踏んでいけばいい政策が生みだされるよう仕組みをデザインすることが重要なのであって、いい政治家だからいい政治ができているというのは、偶然にすぎないのです。偶然で政治は安定しません。政党は、偶然でない形でいい政策を生み出す手段でもあります。』おわり。[e584]

東洋経済オンライン、「日本の代議制民主主義はアップデートが必要か 待鳥聡史さんが語る「政治家に求められる役割」」、京都大学法学研究科教授、待鳥聡史、2021年3月12日、最終アクセス2021/10/27、https://toyokeizai.net/articles/-/415645?page=6

最終的には上記の議論が刺さらず、Caseとして回すのに断念せざるを得なかったのですが、もし議論として成立していれば否定側が頼ることの多い個別事例の評価(例えば参議院による修正の事例)を一気に無視し、ねじれ国会における参議院の権限の強さという制度的な側面にフォーカスしたCaseの評価を大きく見せることが出来るという意味で夢のある議論でした。今回のシーズンでは、どのような政治的帰結が制度に基づく安定的なものであるのかという基準を我々の中で充分に確立出来ていなかったことなどにより議論としては厳しい評価となりましたが、今後また政治系の論題が採用された際には制度論を中心とした議論に再チャレンジしてみたいと思っています。

3.おわりに

いかがでしたか?

政治論題においては、待鳥先生や建林先生といった、政治学者の名前をベースに書籍を探してみることが有効な場合が多数あるかと思います。まだまだ一院制シーズンが続いている所もあるかと思いますので、今後のプレパの参考にして頂ければと思います。

また、今回供養した議論で皆さんに刺さるエビデンスがあれば幸いです。

 

ありがとうございました!

*1:https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2021-12-13-3

*2:京都大学法学部教授、待鳥聡史、『代議制民主主義』、2015年11月25日発行、中央公論、p.251

*3:中略部:「近代国家が達成すべき基本的目標との整合性の高さは、代議制民主主義の大きな魅力である。」

*4:成蹊大学法学部教授高安健将(たかやす・けんすけ)、「議院内閣制−変貌する英国モデル」、2018年1月19日、p.27

*5:名古屋大学大学院法学研究科准教授 大屋雄裕 2012年「議会民主主義の制度は、「人民の考えはけっこう間違う」という前提で設計されている―法哲学者・大屋雄裕インタビュー」https://blogos.com/article/48504/?p=2

*6:中略部:「―デモのように短期的で熱狂的な人民の意志に引っ張られすぎないように、間接民主主義という制度は設計されているわけですね。
大屋:もちろん、デモを通じて、人民が長期的に考えていることが変わったときには政治も変わればいい。」

*7:東洋経済オンライン、「日本の代議制民主主義はアップデートが必要か 待鳥聡史さんが語る「政治家に求められる役割」」、京都大学法学研究科教授、待鳥聡史、2021年3月12日、最終アクセス2021/10/27、https://toyokeizai.net/articles/-/415645?page=5

*8:中略部:すべての面で支持してもらうには、政党の数を増やして細分化するしかなく、多党制はそれを相当程度まで許容するわけですが、どれだけ政党を増やせば誰もが満足いくのかはわかりません。そして、一致しなくてはならない範囲が広がれば広がるほど、妥協が難しくなります。その結果が、文化的に譲れない争点を前面に押し出すアイデンティティー政治の隆盛や、他者を排除しようとするポピュリズム政党の乱立といった帰結です。

*9:東京大学社会科学研究所教授、宇野重規、2013年10月15日、「民主主義のつくり方」p.204-205

*10:中略部:「そしてそのような人々の意志が、行為を通じて相互に影響を及ぼし、社会全体のダイナミズムを生み出していく過程にこそ、注目すべきなのかもしれない。」

*11:京都大学大学院法学研究科教授、待鳥聡史、『民主主義にとって政党とは何かー対立なき時代を考えるー』、2018年6月30日初版、ミネルヴァ書房、p.94-95

*12:京都大学法学部教授、待鳥聡史、『政治改革再考』、2020年5月25日初版、新潮社、p.67

*13:京都大学法学部教授、待鳥聡史、『政治改革再考』、2020年5月25日初版、新潮社、p.272-274

*14:政策研究大学院大学教授、増山幹高、『シリーズ日本の政治学 立法と権力分立』、2015年9月18日初版、東京大学出版会、p.41

*15:京都大学大学院法学研究科教授、建林正彦、2017年9月26日、「政党政治の制度分析ーマルチレベルの政治競争における政党組織」、千倉書房、p.4

*16:同志社大学法学部教授、建林正彦他、『比較政治制度論』、2008年9月30日初版、有斐閣、p.36~39

*17:同志社大学法学部教授、建林正彦他、『比較政治制度論』、2008年9月30日初版、有斐閣、p.42~43

【13日】小林さん: 問いと回答ー論題を通じた学び

12月13日(月)のDebate Advent CalendarはJDA秋季日本語大会に選手としてご参加だった小林茜さんの記事です!!!

 

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問いと回答―論題を通じた学び

 

今年の秋季ディベート大会では、知的好奇心をくすぐられる色々な議論と出会った。

試合そのものだけではなく、試合やリサーチを通じた学びもディベートの面白さである。

この記事では、論題との格闘の過程で得た学びについて記したいと思う。

 

1.民主主義は多数派とは言えない

最近、中国とアメリカの対立が激しくなっており、米中新冷戦などと称されている。

その文脈で盛り上がっているトピックの1つに、「世界民主主義サミット」の開催がある。

NHKの報道(「米「民主主義サミット」閉幕 バイデン大統領は成果を強調」,2021/12/11)によれば、同会議を主催するアメリカのバイデン大統領はこう述べる。

『民主主義の価値観は国際システムの中心にあると確信している。われわれは、21世紀の発展の基準となるルール作りに向けて連携して取り組む』。

 

この点、客観的データに目を向けてみるとどうだろうか。

民主主義に関する研究機関「V-Dem Institute」は、世界178か国を対象とした研究(『DEMOCRACY REPORT 2021』,2021)を公開している。

同研究は、世界各国の政治体制を①完全な独裁主義、②選挙による独裁主義、③選挙による民主主義、④自由民主主義の4つに分類し、その推移等を検証したものだが、これによれば、独裁主義的国家(①、②)は87か国(世界人口の68%)であるのに対し、民主主義的国家(③、④)は92か国(世界人口の33%)である。

独裁主義的国家は、国の数では微差で民主主義的国家を下回るものの、人口比率では実に世界の2/3を占める(中国、インドなど、巨大な人口を抱える国が当該グループに属していることの影響が大きいと思われる)。

 

もちろん、①完全な独裁主義は1971年から2021までの49年間で7割減少しており、③選挙による民主主義は3.7倍に増加しているため、長期的トレンドとしては、民主化が進んだと言えそうである。しかし興味深いのは、同期間中、③選挙による独裁主義が約1.7倍に増加している一方、④自由民主主義はここ10年で約2割減少していることである。

 

どうも、独裁政治はより巧妙な形で広がりつつあるように見え、経済発展と共に民主化するという「常識」に疑義が呈されているようにも見える(これらの分析は、次の記事に詳しい。ニューズウィーク日本版「世界でもっとも多い統治形態は民主主義の理念を掲げる独裁国家だった」,2021)。

 

2.「民主主義の危機」はなぜ起きたのか

東京大学宇野重規教授は、著書『民主主義とは何か』(2020)の中で、近年、民主主義が直面する危機について、①ポピュリズムの台頭、②独裁的指導者の増加、③第四次産業革命、④コロナ危機の4つを挙げている。

詳細は省くが、経済発展と共に民主化するという「常識」が覆されてしまったのは、中国やインドなどの急速な成長を背景に、トップダウンで迅速に決定した方が、社会環境の変化への対応や経済成長にとってプラスであるという考え方が広がりを見せつつあることと関係している(裏返せば、審議の形骸化、決定の遅さなどの諸問題に対し、不満が高まっているということでもある)。

 

どこかで聞いた話ではないだろうか。

そう、これはまさに、一院制論題における典型的「メリット」なのである。

民主主義に様々な課題(あるいは国民の不満)があることは、今季の肯定側の議論でたびたび語られた内因性の議論を参照していただければ明らかである。

 

3.民主主義への不満と「ゼロ院制」

その意味で、「ゼロ院制」の議論は、きわめて鋭い問題の指摘方法であったと思う。

先に述べたとおり、世界的に民主主義への不満が高まっていることは否定できない。

これを問題視し、リーダーによる決断を強調する政治学者は戦前から存在した。

それが、マックス・ウェーバーであり、(ゼロ院制の冒頭で言及された)カール・シュミットである(詳しくは、『民主主義とは何か』を参照していただきたい)。

ここから、決勝における否定側の主張は、「決められる政治」をキーワードに政治学の系譜を辿ると見えてくる重要な論点であることが分かる。

 

4.「ゼロ院制」は良いものか

ハーバード大学のレビツキー教授は、著書『民主主義の死に方』(2018)において、タイトルどおり、各国における民主主義の死に方を丁寧に記録している。

皮肉なことに、「民主主義サミット」を主催するアメリカにとっても、民主主義の危機は無関係ではない。

同書によれば、一部の政治家において、議会における慣習の無視(例えば、裁判官の指名における議事妨害、少数派に発言・修正の機会を与えないなど)、過激な言動などが生じ、それが政党間の激しい対立へとつながり、最終的に、トランプ政権における社会の分断へとつながった(対立を煽る言動、議事堂襲撃事件などは非常に印象的である)。

 

ここで思い出すのは、決勝の肯定側がCPDAの中で言及した、「国民の(小さな)声を聞くこと」の重要性である。

 

トランプ大統領の過激な言動が一定の力を持った要因の一つとして、「取り残された」白人貧困層の不満の受け皿となったことが指摘されている(例えば、ニューズウィーク日本版「トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実」,2016)。

 

シュミットらの議論は、危機の時代(コロナ危機はその一種である)において強い魅力を持つ一方、政治から排除される者を生み出す懸念があり、もしこのような排除が生じるとすれば、安定した国家運営に疑義を感じざるを得ない(あるいは、過去の事例や他国の事例に目を向けると、反発を抑え込むために、言論統制や暴力などの危険な手段に繋がる場合もある)。

 

「議会(議員)が国民の声を拾えているのか疑わしい」という否定側の指摘には説得力があるものの、肯定側の指摘するとおり、議会が国民の声を吸い上げて立法を行ってきた事例があることもまた、否定できない事実である。

決勝における肯定側の問題意識は、議会の必要性を考える一助になりうると思う。

 

5.問いに対する回答

今シーズンは、「ゼロ院制」や「決められない政治」をはじめとする他チームの議論と真正面から向き合い、「議会の意義とは何か」という問いと格闘するシーズンであった。

私なりの「議会の意義」に対する回答は、「個人戦」の予選第1試合で使用した立論である。

拙い内容ではあるが、もし興味のある方がいらっしゃれば、以下のリンクをご参照いただければと思う。

 

  • 否定側第一立論

https://docs.google.com/document/d/1fVjAQ7m0U4tt0yjSgr1yA5f-NR0B1NCsE68G2Ou0mEE/edit?usp=sharing

 

  • 否定側第二立論

https://docs.google.com/document/d/1W5G2swMDQ0IEHfy5u-W6BfjRJeEYhcLfu0m2emwyQR0/edit?usp=sharing

 

  • ケースアタック

https://docs.google.com/document/d/1WUrMvphWXZOy3OCA8JhqhHQoF5yt_qttDrB2ZG0mcX0/edit?usp=sharing

 

このたびのJDAは、まるで『銀河英雄伝説』の世界のような、非常にエキサイティングなシーズンであったことは間違いない(『銀河英雄伝説』については、公式サイトをご覧ください)。

改めて、大会主催者、パートナー、そして考える契機を与えてくださった対戦チームの皆様に対して感謝を申し上げ、この原稿を終えたい。

【12日】天白さん: ねじれ国会を政権交代の布石として位置付けるターンアラウンドの一例

一院制論題の肯定側では、二院だと両院の多数派にならなければ安定した政権運営ができないという分析に基づき、一院にすることで政権交代が活性化し、政治の質や監視機能が高まるといったメリットを展開する例があります。


否定側としては、野党が弱すぎるので政権交代はしない、という反論を行うのが一つの定石ですが、より攻撃的に、むしろ二院制のほうが政権交代の可能性を高めるというターンアラウンドを狙っていくことで、他の反論も巻き込んだダイナミックな議論を展開することができます(展開できたとは言っていない)。

 

政権交代促進系メリットに対するケースアタックの例)

1.そもそも政権交代の前提として、与党の政権運営が十分な批判にさらされ、政権交代の必要性を意識させる機会が必要となるはずです。一院制の下で与党に批判票を投じる機会が生じることの立証がありません。

2.実際には、与党が多数を握る一院では十分な行政監視ができません。
2011年 駒沢大学教授 大山礼子『日本の国会』 182頁
「とはいえ、これまでの国会、とくに衆議院では議員が党派対立を離れた独自の立場で活動するのはむずかしかった。国政調査権の発動には多数決による議決が必要であるため、内閣(≒与党)の利益に反する調査はほとんど実施できなかった。そう考えると、ねじれは、国会による行政監視の実効性を高める千載一遇のチャンスととらえることもできるのである。」

大山が指摘するように、衆参でねじれが生じることでむしろ与党の問題が明らかになります。実例です。
2008年4月4日 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080404/stt0804040327001-n1.htm
「ねじれていない“正常な”国会で審議が形式的すぎ、不十分だったのではないか。それが証拠に、社会保険庁厚生労働省年金問題、道路整備特別会計を好き勝手に使ってきた国土交通省天下り先の独立行政法人…とまあ、汚れた雑巾を絞った泥水のように汚い話が次々と出てきた。」

 

3.参議院では野党が勝ちやすいのでねじれによる監視の機会が増えます。
2020年 慶應義塾大学法学部専任講師 松浦淳介「参議院選挙と安倍政権の国会運営」法學研究93巻4号 86頁
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20200428-0081
参院選に勝利することは決して容易とはいえず、実際に参院選では与党がその直前の総選挙と比較して得票率を低下させることが知られている。今井は参院選を「非政権選択選挙」、「中間選挙」と捉えたうえで、それと「政権選択選挙」としての総選挙では有権者の投票行動が異なるという観点から参院選において与党がしばしば敗北を喫する要因を分析している。」

 

4.ターンアラウンド。野党が勝ちやすい参議院があるほうが、選挙結果で政策が変わるという意識を国民に与えることで、政権交代の可能性が高まります。
2008年 北海道大学公共政策大学院教授 山口二郎 「通常国会の教訓と政権交代への課題」(週刊東洋経済06月28日号)
https://lex.juris.hokudai.ac.jp/csdemocracy/ronkou/yamaguchi080630.html
「また、政策の可塑性という感覚を国民が経験することができたのも、参議院における野党優位のおかげである。政策の評価は別として、国会の多数派を入れ替えることによって法律を変えることができ、それがたとえばガソリン価格の低下という形で生活に影響を及ぼすということを人々は発見した。選挙の結果別の政策を造り出すことができるという経験をすることは、政権交代のある政党政治にとって不可欠の前提となる。」
この分析の後である2009年、実際に、参議院第一党の民主党衆院選でも勝利しました。勝ちやすい参院選で野党が勝ったことではじめて、政権交代が実現したのです。

 

(解説)
1の部分は、何かいい資料があればいいのですが、プレパ不足で見つかっていません。質疑の段階から崩していけるとよいでしょう。なお、よく出てくる「ねじれだと責任の所在があいまいになり、業績への評価の原因をすべて与党や内閣に求めることができないので投票しにくい」という趣旨の議論(2017年 松浦淳介『分裂議会の政治学』181頁)については、「それではなぜ内閣支持率が変動するのですか?」「汚職や不祥事であればだれが悪いかははっきりしますよね?」といった質問が考えられます。

2の部分はデメリットで展開することも考えられます。仮に違うデメリットであるとしても、行政監視ができること自体意義があるということで、デメリット的に投票理由を作れますし、またそうすべきです。参議院での監視のメカニズムは政権交代とは別に成り立ちますし、政権交代が簡単には起こらないという反論を別途行っている場合には、長期政権だと批判の機会がなく腐敗してしまうので、たまに雑巾絞りできる二院制のほうがいい、という伸ばし方もできます。
また、少し切り口は違いますが、ねじれのほうが批判の材料が増えるという点では、政策の議論が公の場でされるようになって透明性が高まるという以下のような資料も活用の余地があります。
2009年 独立行政法人経済産業研究所上席研究員 西垣淳子 「ねじれ国会は問題か?」
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0254.html#note
「フランスで、初めて分割政府(コアビタシオン)が生じた1980年代(社会党ミッテラン大統領の下で1986年の議会選挙で社会党が敗北しシラク内閣が成立)には、政策決定に当初時間がかかり混乱を生じたが、次第に審議過程が透明化された、と言った長所も認められるようになった。同様に、現在のねじれ国会のもとで、従来、自民党内の意見調整という形で水面下で行われていた衆議院参議院の政策調整が、党をまたがるため、国会という公の場で行われるようになっており、議論の透明性、多層性は高まっているといえよう。」

今回の記事のポイントは3と4の部分です。
3の議論は、実際には、肯定側が観察なり内因性なりで読んでくることが期待される内容です(2021JDA秋決勝のケースでも読まれています。なお、結果的に全く議論されていないものの、このケースは割とよくできていたと思います。)。否定側から3の議論(とそれに続く4の議論)を出すことはあまり考えていなくて、肯定側から「参院選では勝ちにくいけど衆院選では勝てない」という話が出てきた場合に、これを4でひっくり返すというのが、今回紹介する議論の本来的な構想です。
与党の政権運営に疑念が生じた場合、それに対する批判を参議院という「おためし」のフォーラムで表出させ、野党に一定の抵抗能力を付与することで、与党の政策を抑制するとともに、そこでの与野党のパフォーマンス次第では政権交代で本格的にお灸をすえさせる、というメカニズムは、野党の政権運営能力に対する拭い難い不信感を前提にすると、日本において政権交代を実現させるために避けて通れないものであるようにも思われます。そういった意味で、そこそこ現実的な議論であろうとも思いますが、他方で、二回勝たないと政権交代できないという鈍重さもありますので、そのあたりの再反論はしっかりと準備しておく必要があります。

野党の意見が反映される点でねじれにも肯定的意義がある、といった典型的な内因性攻撃の議論とも当然相性がよいので、他の反論とも調整しつつ、一貫したストーリーの下でケースアタックを展開できると、厚みのある議論を築けると思います。

 

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【11日】太田さん: JDA大会を見学することの楽しさ

Debate Advent Calendar 2021

6日目の今日(12月11日)は、、、JDA秋季日本語大会をご見学なさった太田さんの記事です!

見学、と言うと消極的な印象を持ちがちですが、太田さんは超アグレッシブ!!頭をフル回転させてディベートを観ていらっしゃるのが伝わってくる記事です。ちゃんとフローを取るとかそういう次元を遥か越えて、観戦するって学びの宝庫になり得るんだな、という高揚感を感じる熱い記事を頂戴しました。

 

以下、12月11日分 太田春土さんご執筆記事です!

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JDA大会を見学することの楽しさ」

 

先日行われた一院制論題の秋季JDA大会では見学として参加し、その時の感想です。私は東北地区に住んでいるので普段なら自分が大会に出場しない限りは見学に行くことは難しいのですが、今年はオンラインで大会が開催されたことによって予選から決勝まで通しでJDA大会を見学することができました。オフライン大会にはオフラインならではの良さがあると思いますが、遠方住みだとオンライン大会の恩恵をかなり享受できてとてもありがたいです。

見学でJDA大会に参加することは、選手として大会に参加する時とは違った面白さがあると思っています。

見学したどの試合も接戦の試合だったり、自分では予想していなかった議論が出てきたりといった具合で見学している私も興奮するような試合ばかりでした。特に私も選手経験があるので議論を準備するまでに至ったシーズンでの経緯や苦労に勝手に思いを馳せたり選手側の熱意やバイブスが伝わってくると、色々と込み上げてくるものがあります。

私は自分の思考の枠組みと比べながら試合を観るのが趣味なので、色々なことを考えながら試合を楽しみました。自分の思考の枠組みと比べるとはどういうことかというと、「自分ならどうするか?」「この議論はすごい!ただ自分がこの議論を思いついて作れるようになるにはどうすればいいのか?」を考えるということです。例えば、話題の決勝戦では零院制の議論が出てきました。議論の中身自体洗練されていたことや民主主義にとって議会はなぜ必要なのかという示唆に富んだ内容だったことから、こんな議論があるのかと思いながら見るだけで既に楽しいです。ただ、私が試合を聞いていてもっと興味を持ったのは自分が選手でこの大会に出たと仮定した時に、「自分だったらこの議論を作れるのか?あるいは作れないとすればどのような思考をすればこのような議論を作れるのか?その違いは何なのか?」です。少し考えてみて欲しいのですが「一院制」や「参議院」というワードで文献を調査したとしても、「零院制」について論じている文献に辿り着くことは難しいのではないでしょうか。そもそも否定側は「零院制」について論じている文献を引用している訳ではないですしね。肯定側が「審議の迅速化」を出してくることが多いのでその極限をとるというのを思考の出発点にするにしても、首相公選や国民投票で民意の接続を保つというプランを(このプランの良し悪しは別として)思いつけるのか、観察のシュミットの話を自分なら思いつけたりリサーチで辿り着けるのか?それが難しいのであれば、どのような考え方やリサーチをすればこの議論を自分で作れるようになるのか?など色んな興味が湧いてきます。どうしてこのようなことを考えて見学をするかというと、自分の議論の癖を知ったり、自分の成長の役に立ったり、あとは純粋に試合を観るのが何倍も面白くなるからです。実は決勝戦での先ほどの疑問の内いくつかは否定側の選手本人がブログ[1]で書いていてくれたりする訳ですが、自分なりの考えを持った上でそういったブログを読むとトップディベーターと自分の考え方の違いを知るきっかけになります。この記事を読んでいる方も是非考えてみて下さい。難しければ決勝戦をみて肯定否定問わずあなたが凄いと思った資料やいい議論だと感じた論点を一つ選んでみて考えてみて下さい。「あなたは無限の時間があったとして白紙の状態で今までのプレパのやり方でその資料や論点に自力で辿り着けると思いますか?辿り着けなければ、どのような考え方やリサーチの仕方をすればその資料や論点に辿り着けると思いますか?」例えば、否定側の選手はシュミットを事前に知っていたんじゃないかという仮説を私は持っていたのですが(もし、事前に知っていたならどういう経緯で知るのだろうか?政治学・政治理論・思想史あたりが怪しい?みたいな仮説に続いていきます。)、ブログを読むと事前にシュミットを知っていた訳ではなく「こういうこと言ってそうな理論家は誰だろう」という仮説を立てて見つけたそうです。皆さんももう予想されているかもしれませんが、この事実を知ると今度は「民主主義と議会制に必然的な結び付きがあるわけではないと言っている理論家がいるはず」という予想を自分は立てられるだろうか?という疑問が湧いてきます。面白いですね。

このように書くと、「“自分”がなくなってしまうのではないか?」という懸念を持つ人がいるかもしれません。しかし、人間の考え方はそもそも生まれた国の文化や言語の仕組みによって縛られるという大げさな話を持ち出すまでもなく、私たちは他人の意見や言葉を参照しながら思考する他者依存的な存在であって完全に周りから孤立した純粋な“自分”なるものがそもそもある訳でもないです。単純な話、自分と選手を比較するのであって鵜呑みにする訳ではないですしね。また、観戦した試合で出てきた議論を「自分ならどのように反論するのか」という選手にリスペクトを持ちつつも出された議論を批判的に検証するという多くのディベーターが既にやっている遊びも当然面白いので観戦中にやっています。もちろん、自分の予想と反した反論を選手がしたらその違いを考えるのも面白いです。プレパしてないのに反論を予想するのが難しい人は、どの論点をドロップしてはいけないのかとかだけでも考えて選手の議論と比較すると気づきがあると思います。ただし、うまい選手でもノリで余分な資料を読んだりドロップしたりミスったり完全無欠って訳でもないので批判的な視点はもちろん大切ですけどね。

こうした自分とうまい選手の思考の違いを考える際に生じた疑問に対して仮説を持って次の大会で試してみると色んな発見があります。「自分はこういうことが分かっていなかったのか!」とか、「立てた仮説通りプレパしてみたらあんまりうまくいかなかった、逆に今までのプレパのこの部分は自分の強みなのかもしれない…!」とかです。そういった発見を持ってまた試合の見学に行くと、ちょっとだけ自分がうまくなってたり見る目が肥えてたりするので今度は今までとは違った疑問や今までの自分では気づけなかった選手の凄さを知ることができたりして、もう泥沼です。ただし、選手として大会に出たときは、他人と自分の思考の枠組みを比較するのはそもそもプレパが大変で難しいし、あまりしない方が良いとさえ思います。思考の瞬発力みたいなものが落ちますし、相手からいい議論を出されたときにすべきことは自分で作れようが作れなかろうが「目の前のその議論をどのように反論するか」であって「自分ならどうすれば作れるんだろう?」と考えてしまうのは特に時間制限のある試合では致命的です。やはり、観戦ならではの楽しみ方だと思います。

自分の思考の枠組みと比較しながら試合を観ることの副次的なメリットとして、オフシーズンにプレパができるというのがあります。「自分はこういうことが分かっていなかったのか!」と発見した際の私の体感として「実は今までに聞いたことのあるディベートのアドバイスを自分が理解していなかった」と「特定の専門分野の入門的(基礎的)な考え方を自分が知らない」の2点が結構多いです。疑問から生じた仮説を持ってむかし一度読んだディベーターのブログを読み返したりジャッジの講評を聞き直したりすると腹落ちの仕方が違ったりします。また、これらのコンテンツは自分が仮説を立てるときにも役立ったりします。あとは、試合を観ると特定の専門分野に興味を持って入門書を読むのが楽しくなったりします。今回の大会の見学の後に思想史の本を読んだり政治学の教科書を読んだりしたのですが、「あっ、これ試合で出てきた話だ」「試合で出てきた話はこの分野だとこういう位置づけにある話なのか。ならこういう議論も作れそうだなぁ」とか普通に読むよりも面白いです。そういった複数の体系を知っていると後々の大会に出た時に役立つことがあるし、大げさな言い方をすれば世界の解像度が良くなり気持ち良いです。もちろん、オフシーズンにプレパしてないと勝てないとか、したから勝てるというものでもありません。特定の狭い領域を深くなぜだろう?と探求すると案外すぐに煮詰まったりする場合があるので、どこかで論理的なジャンプが必要で試合観戦がそのきっかけになり得るという話でした。

勝戦以外の試合でも考える材料や面白いと感じる議論はたくさんあるものの、私が勝手に盛り上がってる話ばかりになってしまいました。

時間制限なく自分勝手に盛り上がって楽しめるのもJDA大会を見学する良さかもしれません。

 

[1] https://note.com/ymtk1996/n/n7b76d6bef617?fbclid=IwAR21MJjpMw3Oime2h4DKtknnnN9VXsnqWwTbqIR76MuSvUQoJ0sDEnAYaHo

 

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【9日】衣田さん: 肯定側立論

Debate Advent Calendar 2021

4日目の今日(12月9日)!

 ご紹介するのはJDA秋季日本語大会に選手としてご参加だった衣田勇也さんの記事です!実際に試合で使った資料を惜しげなく紹介してくださるなんて衣田さんも太っ腹!ありがとうございます!

 今回の一院制の論題で人気のあった政権交代や法案可決のスピードアップといった王道の議論なので参考になる点が多そうです。ここをおさえずして、ですね!

 

以下、衣田さんから頂戴した記事です。

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私がご紹介するのは肯定側立論です。

私自身のディベート経験がまだ浅いということもあり未熟な立論と思いますが、それでもディベートは経験や技術の巧拙関係なく楽しめるし、学びの深いものだと少しでもお伝え出来たらと思い投稿致しました。

 ですので、今回は感想をベースに今回ご紹介する立論の背景や狙いに少し触れていく感じでお伝え出来ればと思っております。

                                        

立論の背景・狙いと、試合を通しての感想や学びについて

今回の論題は「日本は国会を一院制にすべきである」という個別政策に対する是非ではなく、議会の形を変えることで政策全体がどうなっていくかを議論する形の論題になっており、立論段階から苦戦を強いられました。

 全体の政策の変化について語れば具体的に何が起こりどう良いのかというインパクトが不明確になり、具体的な事例を提出すると互いの事例の勝負のような形になってしまい、どのように結論を出し立論を作成すればいいのか最後まで悩み、考え続けました。

 その中で今回の立論を作成にあたり狙っていたことは、最終反駁から考え、立論段階で否定しきれない事実をベースとしていくつか入れることでした。どんな反駁があろうと最終反駁でそこから自分たちが主張したい理想の一院の形を主張できればと考え修正を加えながら作成致しました。抽象論題だからこそ、確実に最後まで残る議論をするにはどうするのかを考え続けた結果だと感じております。

 今までは最初に立論を作成し、それに対応できるようにブリーフを作成しておりましたが、今回の大会で最終的な議論として最初の立論を提出し、そこから反駁や尋問を考え議論・ブリーフを作るべきであるという本来ディベートの基本である視点を学ぶことが出来ました。

 試合結果としては全敗となりましたが、出場されたチームの方々と対戦し、試合を観戦させていただいたことで多くの学びを得ることが出来たと感じております。

 JDAに出場される多くのチームの方々とはまだまだ実力に大きな差を感じてはおりますが、どのような結果になってもディベートの試合は楽しいものだと改めて実感致しました。実力差があるからこそ学べることも多いと思います。

 また、講評をいただいたジャッジの方々、運営の皆様にも感謝しております。この場を借りてお礼を述べさせてください。

 多くの学びをご提供いただき、ありがとうございました。

                                                   

肯定側立論

まず肯定側のプランを提示します。

1.参議院を廃止し一院制にします。

 

観察

1.日本の二院制の構造上、衆参選挙どちらかで政権交代が起こると必ずねじれ国会になります。

政策研究大学院大学准教授 竹中 2012

近年、自民党政権民主党政権共に「ねじれ」国会への対処に難渋している。自民党は2007年7月の参議院選挙に大敗し、この結果、連立与党の公明党と合わせても参議院過半数議席を確保できなくなる。

中略

2009年9月の政権交代とともに「ねじれ」は解消する。ところが、2010年7月の参議院選挙で民主党が敗北したために国会は再び「ねじれ」になる。(おわり)

(nippon.com 2012年

https://www.nippon.com/ja/currents/d00038/)

 

2.この構造により、衆議院選挙で政権交代を果たしても安定政権を作るためのハードルが極めて高くなっています。

元エール大学助教授 斉藤 2011

日本の憲法制度では、衆議院参議院裏表と、3回の選挙を勝たないことには安定政権をつくることができないという高いハードルが設定されています。(おわり)

(Synodos  2011

https://synodos.jp/opinion/politics/1601/ )

 

以上の観察から一院制にして得られるメリットは2点。

 

メリット1. 政策競争の実現化

 

内因性

1.野党が政権の座を獲得するのが極めて難しいことで、現実的な対応を考える事なく反対に徹するようになります。

立命館大学 上久保 2013

野党は政権の座を意識することがないと、政策については現実的な対応を考える必要がなく、反対に徹することになるからだ。(おわり)

(DIAMOND online 2013

https://diamond.jp/articles/-/39118?page=3 )

 

2.実際に野党は政策を議論することに疎かになり、スキャンダルや審議拒否をして成立を遅らせるという形で反対に徹しています。

慶応義塾大学教授 松井 2020

野党からすれば、何のために国会で論争をするのかというと、成立を少しでも遅らせて、あわよくば廃案に追い込む。場合によっては強行採決という形で与党が強引に採決させることを、「横暴だ」と訴えることしかできないような状況になっています。どうしてもスキャンダルを追及したりして、「ときを止める」と言いますが、国会審議が紛糾して空転するという形に持って行く。あるいは審議拒否をして、欠席戦術に持ち込むという形になってしまう。本来は政策の中身について、野党はどういう対案を出しているのかという議論をしなければいけないのが、疎かになってしまうのです。(おわり)

(ニッポン放送 NEWS ONLINE 2020

https://news.1242.com/article/217249 )

 

重要性

1.より良い政策実現のためには、与野党間の政策競争が必要です。

同志社大学 吉田 2016 47ページ

それというのも有権者の代表党首が支持を求めて競い合えば競い合う程有権者の高揚も高まる可能性も高くなるからです。それは市場において企業同士の健全な競争があることで消費者の利益が増えていくのと同じ構図です。(おわり)

(吉田 徹 2016 「野党」論―何のためにあるのか  47ページ)

 

解決性

1.プラン後は一院のため、選挙に一勝するだけで安定政権をとることが出来ます。

 

2.さらに衆議院小選挙区制は、政権交代の可能性が高く、政権が安定するという特性を持っているので政権交代をしやすいシステムだけが残ることになります。

三田市ホームページ 

小選挙区制では、ひとつの選挙区から最多得票者1人が当選します。政権の選択についての国民の意思が明確な形で示される、政権交代の可能性が高い、政権が安定するなどの特性を有しています。(おわり)

(三田市ホームページ

https://www.city.sanda.lg.jp/senkyo/hireidaihyou.html )

 

  1. 解決性1と2により、内因性で述べた構造がなくなることで与野党間の健全な法案審議や政策競争が可能になります。

東京大学大学院法学政治学研究科教授 川人 2011

議会における両党の政党間競争においては、政権党・政府は政策を実現するために法律案・予算案などを提案し、野党はそれらを批判し論戦を繰り広げる。しかし、通常は、多数を確保する政権党・政府の提案が可決・成立する。そして、総選挙における政党間競争では、政権党はこれまでの政府統治業績を有権者にアピールして、政権の継続を訴え、野党は政府の政権運営を批判し、政府の進めてきた政策に代わる新しい政策を提案して有権者の支持を獲得しようとし、政権交代を訴える。(おわり)

(Voters 2011

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/senkan/documents/voters04.pdf )

 

メリット2. 決められる政治と政策決定の迅速化

 

内因性

1.日本では議員の政党化が進んでおり、ねじれが起こると野党は次選挙で有利になるために内閣の政策を不必要に妨げ、その結果政策決定が滞ります。

政策研究大学院大学准教授 竹中 2012より引用

「ねじれ」国会は過去にもあった。しかしながら、近年の「ねじれ」国会において与野党はより激しく対立し、このために政策決定が滞ることになっている。

中略

野党第一党は「ねじれ」を利用して、内閣の政策立案を妨げ、次期総選挙での自らの立場を有利にしようとするのである。(おわり)

(nippon.com 2012

https://www.nippon.com/ja/currents/d00038/ )

 

2.実際にねじれ時には、与党の重要法案が置き去りにされました。

毎日新聞 2013

通常国会は26日、安倍晋三首相に対する問責決議を可決して幕を閉じた。7月4日公示の参院選を前に、与野党は対決する構図を強めている。そのあおりで、電力システム改革や生活保護の見直しといった暮らしにかかわる重要法案は置き去りにされた。(おわり)

(毎日新聞 2013

http://www.asahi.com/senkyo/senkyo2013/news/TKY201306270116.html )

 

重要性

1.現在は問題が生じた場合の損害の重要性から不確実性の高い状況の中で迅速な対応をして後から修正していくことが必要です。

慶応大学 川崎 2009

もう一つは、科学技術の発展と判断の困難性・不確実性ということである。(中略)特に、近年は、問題が生じた場合の損害の重大性などから、できるだけ早い段階で予防的な対応を求められるようなケースも増えており、そうなると一層不確実性が高い状況の中で判断を行わざるを得ないことになる。立法者はそのような状況の下で、次々と判断を迫られ、一定の結論を出さざるを得なくなっているのである。そして、それらに対応していくためには、とりあえず一歩前進ということで漸進主義な対応を行うとか、柔軟性をもたせた制度とするとか、場合によっては実験的な対応を行うようなことも、選択肢となってこよう。(おわり)

(川崎 政司 2009 「立法をめぐる昨今の問題状況と立法の質・あり方:法と政治の相克による従来の法定な枠組みの揺らぎと、それらへの対応」)

file:///C:/Users/user023/Downloads/AA1203413X-20090125-0043.pdf )

 

2.しかし、参院があることで多くの迅速に対応すべき政策があるのにもかかわらず迅速な対応が困難になっています。以下参院の問題点についてのエビデンス

東洋経済 2011

第一に、以前と比較して一層のスピードが要求される政治状況にもかかわらず、機敏な政策対応が極めて困難になってきている点。

現在、国内に東日本大震災原発事故、財政・社会保障制度一体改革などの大問題が存在するのに加え、米国と欧州を震源とする世界規模の経済危機にも直面している。外交では、日米関係の冷却状態が続いているうえ、領土や安全保障で新たな問題が次々と発生している。このような環境下で何より重要なのは、政府の機敏で強力な対応である。(おわり)

(東洋経済 2011

https://toyokeizai.net/articles/-/8125?page=3 )

 

解決性

1.二院制から一院制になることで国民に約束した与党の政策が成立するようになります。ネブラスカの事例です。

専修大学教授 藤本 2008

例えば,図表①からも明らかなように,1999年の第96議会では883本の法律案が提出されており,その中で327本の法律が成立している。つまり,39%の成立率である。それは,全米平均の約二倍である。その意味するところは,一院制議会が提案された法律案を処理するに際し,大多数の州議会(二院制)のよりも効率的(Efficient)であるということである。(おわり)

(藤本 一美 2008 「ネブラスカ州一院制議会」)

https://core.ac.uk/download/pdf/71792088.pdf )

 

2.メリット1の解決性も伸ばしてください。

野党が不必要な政策の妨げをしなくなるのでメリット1からも迅速化が望めます。

 

adventar.org

 

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